第40話「止まるな」
――病棟。
夜に近い時間帯。
少しだけ落ち着き始めた空気の中で、それは突然起きた。
「患者、意識レベル低下!」
「呼吸浅い、SpO2下がってる!」
一気に空気が張り詰める。
ストレッチャーの上。
若い患者。
(……あの時と同じくらいの歳だ。)
その一瞬。
誰かの思考が止まりかける。
「心拍……落ちてる!」
「――っ、心停止!」
アラームが鋭く鳴る。
時間が、一気に圧縮される。
「コードブルー!」
「CPR開始!」
声が飛ぶ。
体が動く。
でも。
(――またか)
その瞬間。
ヘンリーの中で、何かが重なる。
白い天井。
冷たい空気。
動かない身体。
呼ばれても、返らない声。
(――ノア)
一瞬だけ、視界が揺れる。
時間がズレる。
“今”と“あの時”が、重なる。
「――ヘンリー先生!」
声で、引き戻される。
「……っ」
一拍。
ほんの、一拍だけ。
それでも。
周りから見れば、ほとんど分からないくらいの間。
ヘンリーはすぐに前を見る。
「圧迫続けろ」
「アドレナリン準備」
「……止めるな」
声は、いつも通りだった。
冷静で。
迷いがない。
でも。
ほんのわずかに。
いつもより低い。
(……止めるな)
それは指示であり。
自分への言葉でもあった。
⸻
サヤは、その空気に気づく。
(……今)
ほんの一瞬。
違和感。
でも、考える余裕はない。
「酸素入ります!」
「ルート確保できました!」
動き続ける。
止まらない。
ラーナも迷わない。
さっきの処置のときとは違う。
判断は速く、的確に流れていく。
(止めない)
全員が同じ方向を見ている。
「……戻れ」
ヘンリーの声。
小さく、低く。
(戻れ)
誰に向けた言葉か分からない。
患者か。
それとも――
モニターの波形が、わずかに揺れる。
「……っ」
誰かが息を止める。
「……戻ってきてる!」
「心拍、再開!」
一気に空気が変わる。
「……はぁ……」
誰かが大きく息を吐く。
処置は、そのまま安定へと移行していく。
ヘンリーは、最後まで動きを見届ける。
表情は変わらない。
声も、変わらない。
でも。
処置が完全に落ち着いたあと。
ほんの一瞬だけ。
視線が、どこか遠くを見る。
(……違う)
すぐに戻る。
何もなかったみたいに。
「後は任せる」
短く言って、その場を離れる。
サヤは、その背中を見る。
(……今の)
さっきの一瞬。
確かに、何かがあった。
でも。
それが何なのか、分からない。
⸻
ラーナも同じ方向を見る。
何も言わない。
ただ、少しだけ目を細める。
(……今の間)
ほんの一拍。
でも、見逃さない。
それが何を意味するのかまでは、まだ分からない。
ただ。
(……あの人でも)
完全じゃない瞬間がある。
その事実だけが、静かに残る。
⸻
サヤはもう一度、ヘンリーが消えた方を見る。
(……知らない)
まだ、知らない。
あの人の過去も。
今、何を思ったのかも。
でも。
(……さっきの)
あの一瞬だけは。
(見た気がする)
触れてはいけないものに、少しだけ触れたような感覚。
医局はまた、いつものように動き出していた。
でも、それが何かはまだ誰も言葉にできなかった。
サヤだけが、それを「見てしまった」と思っていた。




