第39話「止まるの、やめただけ」
朝の病棟は、いつも通り忙しかった。
ナースコールの音、足音、短い指示。
その全部の中に――今日は少しだけ、違う空気が混ざっている。
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ミネルの病室。
カーテンはすでに開かれていて、朝の光が差し込んでいた。
ベッドの上には、私物がまとめられた小さなバッグ。
いつもより少しだけ、軽い空気。
「ほんとに今日だね」
サヤがそう言うと、ミネルはゆっくり瞬きをしたあと、小さく笑った。
「うん。そうみたい」
いつも通りの声なのに、どこか柔らかい。
「退院、普通にできるんだ」
ラーナが淡々と言う。
「できるできる。たぶんね」
ミネルは肩をすくめるようにして笑った。
「まあ、無理はしないでって言われたけど」
少しだけ沈黙が落ちる。
その間に、病室の空気だけがゆっくり動く。
ヘンリーは壁際でカルテを確認していた。
視線はミネルに向いているのに、言葉は少ない。
「問題ない。通院は継続」
「はーい」
ミネルは軽く返事をする。
その軽さが、逆に現実感を持たせていた。
「ねえサヤ」
ふいにミネルが呼ぶ。
「ん?」
「なんかさ、病院ってずっといると時間止まる感じしない?」
「……するかも」
サヤは少しだけ頷いた。
「でもさ」
ミネルは窓の外を見ながら続ける。
「止まるの、やめただけなんだよね」
「……」
誰もすぐには返さない。
ラーナがほんの少しだけ目を伏せる。
ヘンリーは変わらず立っている。
サヤだけが、その言葉をゆっくり受け取っていた。
「戻るって言うと大げさだけどさ」
ミネルは軽く笑う。
「ちょっとずつ、動くだけ」
「時短勤務だし、通院しながらだし」
「まだ途中」
「……それでも戻るんだ」
サヤが小さく言う。
「うん」
ミネルは即答した。
「止まってるの、ちょっと飽きたしね」
その言葉に、ラーナがわずかに反応する。
でも何も言わない。
「じゃあ、退院処理進める」
ヘンリーが短く言う。
「はーい」
ミネルはまた軽く返事をした。
手続きが進む中で、サヤは少しだけミネルを見ていた。
ベッドから立ち上がる姿。
少しだけ慎重な足取り。
それでも、ちゃんと前に進んでいる。
(……止まるの、やめただけ)
その言葉が、胸の中で何度も繰り返される。
⸻
退院の準備が終わる頃。
ミネルはバッグを肩にかけて、軽く息を吐いた。
「じゃあ、いったんここは一区切りってことで」
「って言っても、また普通に来るんだけどね」
いつものような、柔らかい声で少し笑う。
ラーナが一歩だけ前に出る。
「……無理しないで」
「するよ」
ミネルは即答する。
「でもちゃんと戻る」
ラーナは少しだけ目を細める。
「……そう」
それ以上は言わなかった。
サヤは少し遅れて近づく。
「ミネル」
「ん?」
「退院、おめでとう」
ちゃんと伝えたくて、少しだけ言葉を選んだ。
ミネルは一瞬だけ目を細めて、それから笑った。
「ありがとう」
「サヤもさ」
「止まらないでね」
「……っ」
心臓が少しだけ跳ねる。
でも、ミネルはすぐに歩き出す。
最後に、ヘンリーの前を通る。
「じゃあね、先生。また仕事でもよろしくお願いします」
「ああ」
それだけ。
短い別れ。
でも、それで十分だった。
廊下に出る。
外の光が、少しだけ眩しい。
ミネルは一度だけ立ち止まって、病院を振り返った。
「ちょっと、止まるのやめただけ」
誰に言うでもなく、小さくつぶやいて。
また歩き出した。
その背中を、サヤは静かに見送っていた。
ラーナは何も言わずに立っている。
ヘンリーはもう視線を外していた。
でも、それぞれの中に同じ言葉だけが残っていた。
(止まるの、やめただけ)
その言葉は、誰かに言われたものじゃなくて、
自分の中に残っているものだった。
病棟の音は、もういつも通りに戻っている。
それでも今日は少しだけ、誰もが前を向いていた。




