第38話「ちゃんと見てる」
その夜。
ヘンリーの家。
ココアの湯気が、静かに揺れている。
サヤはソファに座ったまま、カップを両手で持っていた。
でも、ほとんど口をつけていない。
(……なんか)
(落ち着かない)
昼間の光景が、頭から離れない。
ラーナの判断。
迷いのない動き。
そして――
(……近かった)
思い出してしまって、また少しだけ胸がざわつく。
隣にいるはずなのに。
どこか、距離を感じる。
「……静かだな」
ヘンリーの声。
サヤは一瞬だけ顔を上げる。
「……そうですか?」
「普段よりな」
見抜かれてる。
それだけで、少しだけ心臓が跳ねる。
「……別に、普通です」
「嘘だな」
即答。
サヤは少しだけ口を尖らせる。
「なんで分かるんですか」
「分かる」
それ以上説明しない言い方。
ずるい。
(……またこれだ)
何も言えなくなるやつ。
サヤは少しだけ息を吐く。
「……今日」
「ラーナ、すごかったですね」
話題を変えるように言う。
でも。
自分でも分かるくらい、少しだけ硬い。
「ああ」
「遅れてなかった」
短い評価。
それだけ。
でも、ちゃんと見てる言い方。
(……やっぱり)
胸の奥が、少しだけざわつく。
サヤは視線を落とす。
「判断も、速かったし」
「ちゃんと見えてる感じで」
言葉にしながら。
自分の中の何かも一緒に出てくる。
「……私、ああいうのまだ無理だなって思って」
少しだけ笑う。
誤魔化すみたいに。
「焦ってるのか」
即答だった。
「……っ」
図星すぎて、言葉が詰まる。
「別に」
「焦ってるわけじゃ……」
「嘘だな」
被せるように言われる。
サヤは言い返そうとして、やめる。
(……バレてる)
少しの沈黙。
「……あと」
小さく続ける。
「なんか……」
言いづらい。
でも、止められない。
「……近く見えて」
「ん?」
「ラーナと、ヘンリーさん」
一瞬、言葉を飲み込む。
言った瞬間、顔が熱くなる。
「別に、変な意味じゃないんですけど!」
「なんかその……」
言葉がぐちゃぐちゃになる。
「……私より、ちゃんと隣にいる感じというか……」
そこまで言って。
自分で何を言ってるのか分かって、止まる。
言ってから、少しだけ後悔する。
比べるつもりはなかったのに。
少しの沈黙。
「で?」
短く返ってくる。
サヤは一瞬詰まる。
「……で、って」
「何が言いたい」
逃がしてくれない。
サヤは少しだけ視線を逸らす。
「……別に」
「何も」
「嘘だな」
三回目。
もう逃げられない。
サヤは観念したみたいに、小さく息を吐いた。
「……なんか」
「置いていかれる感じがして」
言った瞬間、少しだけ胸が苦しくなる。
「ラーナも、ちゃんと前に進んでて」
「ヘンリーさんの隣で、ちゃんと立ててて」
そこまで言って、止まる。
(……何言ってるんだろ私)
恥ずかしくなって、言葉を切ろうとする。
次の瞬間。
コト、と小さな音。
カップがテーブルに置かれる。
「サヤ」
名前を呼ばれる。
顔を上げた瞬間。
距離が、近い。
「っ」
いつの間にか、すぐ目の前にいる。
「顔上げろ」
低い声。
サヤはゆっくり顔を上げる。
視線がぶつかる。
逃げられない距離。
「勝手に不安になるな」
短い一言。
でも。
まっすぐ落ちてくる。
「……っ」
言葉が詰まる。
「誰と比べてる」
「意味ないだろ」
淡々としているのに。
逃がさない言い方。
「でも……」
反射的に言いかける。
でもその前に。
「お前は、お前でいい」
かぶせられる。
サヤの呼吸が、一瞬止まる。
「……隣に立つのに、同じになる必要はない」
静かな声。
でも、確定みたいな言い方。
「……っ」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「ちゃんと見てる」
その一言で。
全部、崩れる。
「……私のこと?」
確認するみたいに、小さく聞く。
「他に誰がいる」
即答。
サヤの顔が一気に熱くなる。
「……ずるいです」
小さくこぼす。
「何が」
「そうやって……簡単に言うとこです」
ヘンリーは少しだけ目を細める。
「簡単じゃない」
一歩、距離を詰める。
「分かってないのはお前だ」
そのまま、手を取る。
逃がさない形で。
「……っ」
サヤの指が、少しだけ震える。
「不安になるなら、こっち見ろ」
視線を逸らさせない。
「……はい」
小さく頷く。
さっきまでのざわつきが、少しずつ消えていく。
(……単純すぎる)
でも。
それでいい気がした。
さっきまであったざわつきが。
少しずつ、静かになっていく。
(……ああ)
息を吐く。
(この人、ほんとに)
ゆっくり、力が抜ける。
(ちゃんと見てるんだ)
サヤは少しだけ、手を握り返した。
ヘンリーは何も言わない。
でも、ほんの少しだけ指に力が返ってくる。
それだけで、十分だった。
(……もう、大丈夫)
ココアの甘さが、ようやくちゃんと分かった。
サヤへご褒美を。




