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第27話「崩れる余裕」

 処置室。


 急患対応のあと。


 サヤは、少しだけ息を整えていた。



「……さっきの」



 低い声。


 振り向くと、ヘンリーが立っている。



「判断、早かったな」


「……え?」



 一瞬、固まる。



「酸素に切り替えたタイミング、悪くない」



 淡々とした声。


 褒めているのか分からない。


 でも。



(……見てたんだ)



 胸が、少しだけ熱くなる。



「……ありがとうございます」



 小さく返す。


 その瞬間。



「……でも」



 短く続く。



「まだ甘いな」


「……っ」



 一気に現実に引き戻される。



「呼吸音、もう一段拾えただろ」



 視線が鋭い。



「……はい」



 悔しい。


 でも。



(……ちゃんと見てる)



 その事実に、少しだけ嬉しくなる。


 そのとき。


 ふと思い出した昨日の言葉。



(……ヘンリーさんには、してもいいですか)



 自分の声。


 あの距離。


 ヘンリーの表情。



 視線を上げると。


 そこにいる。


 白衣姿のヘンリー。



 目が合う。


 一瞬だけ。


 逸らされる。



 少しだけ迷って。


 でも。


 ほんの少し、踏み出す。


 自分から視線を合わせて。


 ふっと、笑う。


 あのときみたいに。


 でも今度は。


 ちゃんと、ヘンリーに向けて。



「……ありがとうございました!」


「……っ」



 一瞬。


 ほんのわずかに、空気が揺れる。


 ヘンリーの視線が止まる。


 でも。


 すぐに逸らされる。



「……この記録、確認しろ」


「はい」



 いつも通りの声。


 でも。



(……今の)



 少しだけ、違った。







 夜。


 あの家。



「お邪魔します……」



 扉を閉める。


 静けさ。


 暖炉の火が揺れている。


 視線を上げると。


 ヘンリーが、ソファに座っている。


 こちらを見ている。


 逃げ場がない。



「……あれ、どういうつもりだ」



 低い声。


 まっすぐに刺さる。



「え……?」



 とぼける。


 でも。


 分かっている。


 昼間のこと。



「分かってるだろ」



 一言で、逃げ道が塞がれる。


 心臓が、どくんと鳴る。



「……別に」



 少しだけ視線を逸らす。



「仕事してただけです」



 小さな強がり。


 その瞬間。


 ヘンリーの表情が、わずかに歪む。


 一歩、近づく。



「……ああいうの」


「え……?」



 さらに距離が縮まる。


 逃げ場が、なくなる。



「……ああいう顔」



 一瞬、言葉が止まる。


 わずかに視線を逸らして。


 小さく、息を吐く。



「……」



 言い直すように。



「……軽くやるな」



 ほんのわずかに、視線が揺れる。


 一瞬、息を呑む。


 その意味を理解して。


 顔が、じわっと熱くなる。



(……あの笑顔のこと)



 何も言えない。


 視線が揺れる。


 そのまま。



「……あと我慢できなくなるぞ」



 さらに低く、落とされた声。


 さっきよりも近い距離。


 逃げ場がない。


 その言葉に。


 胸が、じんわり熱くなる。


 でも。


 引かない。



(逃げない)


「……我慢しなくていいですよ」



 静かに返す。


 一瞬、空気が止まる。


 次の瞬間。



「……煽るな」



 低く、短く。


 そのまま。


 ぐい、と腕を引かれる。



「――っ」



 一気に距離が詰まる。


 近い。


 息がかかる距離。


 でも。


 目を逸らさない。


 一瞬だけ、迷う。

 

 それでも。


 ほんの少し、背伸びをして。


 そっと。


 頬に、キスをする。


 触れた瞬間、体温が跳ねる。



「……っ」



 一瞬。


 ヘンリーの動きが止まる。



「……グレーテルさんなら、いいです」



 小さく言う。


 顔は赤い。


 でも、目は逸らさない。


 沈黙。


 張り詰める空気。


 次の瞬間。


 ぐっと、強く引き寄せられる。



「――っ」



 さっきより近い。


 強い力。


 視線がぶつかる。


 今にも触れそうな距離。


 でも。


 止まる。


 ほんのわずかに、顔を逸らす。



「……っ」



 息を整えるように、数秒。


 そのあと。



「……ほんとに厄介だな」



 低く、押し殺した声。


 ゆっくりと手を離す。


 距離が少し戻る。


 でも。


 完全には離れない。



「……これ以上やるな」



 ぽつり。



「……本気で、止まらなくなる」



 その言葉に。


 サヤは。


 ドキドキしながら。


 ちゃんと隣に近づけてる気がして、


 小さく、笑った。

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