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第25話「触れない距離」

 ――帰り道。



(なにあれ……!)



 夜道を歩きながら、サヤは顔を覆う。



(なんであんな余裕なの……!)



 思い出すだけで、体温が上がる。


 引き寄せられたこと。


 距離の近さ。


 そして。



(……ドキドキしてた)



 あのとき、確かに感じた鼓動。



(あれ、グレーテルさんのだったよね……)



 胸が、きゅっとなる。



(……ずるい)


(あんな顔するなんて)



 悔しいのに。



(でも……)



 小さく息を吐く。



(嫌じゃ、なかった)



 むしろ。



(……ちょっと、嬉しかった)



 その事実に、自分で驚く。



 足が、止まる。



(……でも)



 ゆっくりと、顔を上げる。



(このままじゃ、ダメだ)



 あのとき。


 ミネルが倒れた日のことが、ふとよぎる。


 何も分からなかった。


 怖かった。


 それでも、動くしかなかった。



(……あのときも)


(ちゃんと分かってなかったのに、動いた)



 胸の奥が、少しだけ痛む。



(でも)



 手を、ぎゅっと握る。



(今度は、ちゃんと分かって進みたい)







 数日後。


 あの家の前。


 ノックする前に、深く息を吸う。



(逃げない)



 コンコン。



「……入れ」


「お邪魔します」



 扉を開ける。



「また来たのか」



 いつも通りの声。


 暖炉の火が、静かに揺れている。


 サヤは、少しだけ間を置いてから言った。



「……この前のこと」


「覚えてますか」


「どれだ」


「……ずるいやつです」


「……ああ」



 わずかに口元が緩む。


 その反応に、少しだけむっとする。


 でも。


 今日は、逸らさない。



「今度は」



 一歩、近づく。



「逃げませんから」



 言い切る。


 沈黙。


 ヘンリーが、ゆっくりと立ち上がる。


 距離が、縮まる。



(来る)


(でも、逃げない)



 心臓がうるさい。


 でも、足は動かない。


 逃げない。


 手が、頬に触れる。



「……っ」



 びくっと肩が揺れる。


 それでも、逃げない。


 視線が絡む。


 近い。


 息がかかる距離。


 あと、少しで。



「……待ってください」



 自分の声で、止めた。


 初めて、自分から。



「……なんだ」



 低い声。


 サヤは、少しだけ息を整える。


 視線を逸らさない。



「この前」


「逃げないって、言いましたけど」



 言葉を探す。



「ちゃんと分かりました」



 小さく、でもはっきりと。



「私、まだ全然足りてないです」



 少しの沈黙。


 でも、続ける。



「この前、ミネルが倒れたときも」


「何も分からなくて、怖くて」


「でも、動くしかなくて」



 胸の奥が、少しだけ痛む。



「そういうの、ちゃんとできるようになりたいです」



 手を、ぎゅっと握る。



「逃げないだけじゃなくて」


「ちゃんと見て、ちゃんと判断できるように」



 まっすぐ、見上げる。



「その上で」



 少しだけ、声が揺れる。



「隣に立てるようになりたいです」



 静寂。


 暖炉の音だけが、小さく響く。


 ヘンリーは、何も言わない。


 ただ、じっと見ている。


 長い、沈黙。


 やがて。


 小さく息を吐く音。



「……そうか」


(……思ったより厄介だな)



 短い言葉。


 でも、その声はどこか柔らかかった。


 再び、距離が縮まる。



「……っ」



 反射的に身構える。


 でも、逃げない。


 そっと。


 額に、触れる。



「……え」



 ほんの一瞬。


 あたたかい感触。


 すぐに離れる。



「今日はここまでだ」



 低い声。


 少しだけ、口元が緩んでいる。



「……っ」



 顔が、一気に熱くなる。


 思わず額を押さえる。



(なにそれ……)


(ずるい……)



 でも。


 胸の奥は、不思議と静かだった。


 さっきまでの焦りとは違う。


 ゆっくりと、落ち着いていく。



「……また来い」



 ぽつりと、ヘンリーが言う。


 少しだけ間を置いて。



「逃げるなよ」


「……最後まで」



「……はい」



 今度は、迷わず頷いた。





 帰り道。


 夜風が、少しだけ冷たい。


 でも。


 足取りは、軽かった。



(……ちゃんと、追いつく)

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