第25話「触れない距離」
――帰り道。
(なにあれ……!)
夜道を歩きながら、サヤは顔を覆う。
(なんであんな余裕なの……!)
思い出すだけで、体温が上がる。
引き寄せられたこと。
距離の近さ。
そして。
(……ドキドキしてた)
あのとき、確かに感じた鼓動。
(あれ、グレーテルさんのだったよね……)
胸が、きゅっとなる。
(……ずるい)
(あんな顔するなんて)
悔しいのに。
(でも……)
小さく息を吐く。
(嫌じゃ、なかった)
むしろ。
(……ちょっと、嬉しかった)
その事実に、自分で驚く。
足が、止まる。
(……でも)
ゆっくりと、顔を上げる。
(このままじゃ、ダメだ)
あのとき。
ミネルが倒れた日のことが、ふとよぎる。
何も分からなかった。
怖かった。
それでも、動くしかなかった。
(……あのときも)
(ちゃんと分かってなかったのに、動いた)
胸の奥が、少しだけ痛む。
(でも)
手を、ぎゅっと握る。
(今度は、ちゃんと分かって進みたい)
⸻
*
⸻
数日後。
あの家の前。
ノックする前に、深く息を吸う。
(逃げない)
コンコン。
「……入れ」
「お邪魔します」
扉を開ける。
「また来たのか」
いつも通りの声。
暖炉の火が、静かに揺れている。
サヤは、少しだけ間を置いてから言った。
「……この前のこと」
「覚えてますか」
「どれだ」
「……ずるいやつです」
「……ああ」
わずかに口元が緩む。
その反応に、少しだけむっとする。
でも。
今日は、逸らさない。
「今度は」
一歩、近づく。
「逃げませんから」
言い切る。
沈黙。
ヘンリーが、ゆっくりと立ち上がる。
距離が、縮まる。
(来る)
(でも、逃げない)
心臓がうるさい。
でも、足は動かない。
逃げない。
手が、頬に触れる。
「……っ」
びくっと肩が揺れる。
それでも、逃げない。
視線が絡む。
近い。
息がかかる距離。
あと、少しで。
「……待ってください」
自分の声で、止めた。
初めて、自分から。
「……なんだ」
低い声。
サヤは、少しだけ息を整える。
視線を逸らさない。
「この前」
「逃げないって、言いましたけど」
言葉を探す。
「ちゃんと分かりました」
小さく、でもはっきりと。
「私、まだ全然足りてないです」
少しの沈黙。
でも、続ける。
「この前、ミネルが倒れたときも」
「何も分からなくて、怖くて」
「でも、動くしかなくて」
胸の奥が、少しだけ痛む。
「そういうの、ちゃんとできるようになりたいです」
手を、ぎゅっと握る。
「逃げないだけじゃなくて」
「ちゃんと見て、ちゃんと判断できるように」
まっすぐ、見上げる。
「その上で」
少しだけ、声が揺れる。
「隣に立てるようになりたいです」
静寂。
暖炉の音だけが、小さく響く。
ヘンリーは、何も言わない。
ただ、じっと見ている。
長い、沈黙。
やがて。
小さく息を吐く音。
「……そうか」
(……思ったより厄介だな)
短い言葉。
でも、その声はどこか柔らかかった。
再び、距離が縮まる。
「……っ」
反射的に身構える。
でも、逃げない。
そっと。
額に、触れる。
「……え」
ほんの一瞬。
あたたかい感触。
すぐに離れる。
「今日はここまでだ」
低い声。
少しだけ、口元が緩んでいる。
「……っ」
顔が、一気に熱くなる。
思わず額を押さえる。
(なにそれ……)
(ずるい……)
でも。
胸の奥は、不思議と静かだった。
さっきまでの焦りとは違う。
ゆっくりと、落ち着いていく。
「……また来い」
ぽつりと、ヘンリーが言う。
少しだけ間を置いて。
「逃げるなよ」
「……最後まで」
「……はい」
今度は、迷わず頷いた。
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帰り道。
夜風が、少しだけ冷たい。
でも。
足取りは、軽かった。
(……ちゃんと、追いつく)




