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第20話「届かない距離」

 いつも通り、少しだけ早く病院に来た。


 始業時間よりも前。


 まだ人の少ない、静かな時間。



 そのまま足は、自然と同じ場所へ向かう。


 ICU。



(……まだ仕事の時間じゃない)



 だからこれは、仕事じゃない。



「……ミネル」



 小さく声をかける。


 ベッドの上で、ミネルがゆっくりと目を開ける。



「……サヤ」



 少しだけかすれた声。


 でも、ちゃんと返ってくる。



「おはよう」


「……また来てる」


「来ちゃった」



 小さく笑う。


 ミネルも、ほんの少しだけ笑う。


 まだ完全じゃない。


 動きも遅いし、声も弱い。


 それでも。



(ちゃんと、戻ってきてる)



 それだけで、十分だった。



「今日、調子どう?」


「……ちょっとだるい」


「そっか」



 バイタルを確認する。


 数値は安定している。



(……よかった)



 そのとき。



「おはよう。失礼する」



 低い声が、静かに落ちる。


 振り返る。



 ヘンリーだった。



 白衣姿。


 以前よりもずっと整った外見。


 でも、空気は変わらない。



「……おはようございます」



 少しだけ姿勢が正しくなる。


 ヘンリーは軽く視線を向けてから、ミネルの方へ向かう。



「状態は」



 短い。



「今、確認したところです」


「安定してます」



「……そうか」



 それだけ言って、すぐにミネルの様子を見る。


 指先の動き。


 呼吸。


 わずかな表情の変化。


 ほんの数秒。



「……少し呼吸浅いな」



 サヤの視線が上がる。



(……え)



 もう一度、モニターを見る。


 数値は問題ない。


 でも。



「……深呼吸、できるか」



 ミネルが小さく頷く。


 指示に従って、ゆっくりと呼吸する。



「……そう、それでいい」



 その声は、驚くほど落ち着いていた。


 サヤは、ただ見ている。



(……すごい)


(私、気づかなかった)



 ほんの小さな違い。


 でも、それを見逃さない。



(やっぱり、この人は)



 胸の奥が、少しだけざわつく。



「……無理するな」



 ミネルにだけ向けられた声。


 それだけ言って、ヘンリーは立ち上がる。



「後は任せる」


「……はい」



 視線が、一瞬だけ交わる。


 すぐに逸れる。


 ヘンリーはそのまま部屋を出ていく。


 静けさが戻る。


 少しだけ、時間が止まったみたいに。



「……ねえ」



 ミネルの声。



「さっきの先生」



 サヤは顔を向ける。



「……ずっと見てたよ」


「え?」


「サヤのこと」



(……見てた?)


(私を?)



 胸の奥が、じんわりあたたかくなる。



(……なんで)



 理由なんて、分からないのに。


 少しだけ、息が軽くなる。


 ふわふわして。


 落ち着かなくて。


 でも、嫌じゃない。



(……なんだろ、これ)



 自分の中にある感覚なのに、うまく言葉にできない。


 ただ、ひとつだけ。



(……嬉しい)



 その気持ちだけは、はっきりしていた。


 その瞬間。


 ふっと、思い出す。





 ロッキングチェア。


 近すぎた距離。


 あの視線。





 胸の奥が、少しだけ強く鳴る。



(……あ)



 心臓が、強く鳴る。



(……これ)


(……え)


(……好き、だ)



 言葉にした瞬間。


 胸の奥に、すとんと落ちる。


 逃げられないくらい、はっきりと。


 その言葉が浮かんだ瞬間。


 少しだけ、息が止まる。



(……私が?)



 じわじわと実感が広がっていく。


 胸の奥が、さっきよりも強く鳴る。



(……あの人を)



 否定は、できなかった。


 むしろ。



(……やっぱり)



 どこかで、もう分かっていた気がする。


 でも――


 そのすぐ後に。


 別の感覚が、重なる。



(……でも)



 視線が、自然とモニターに落ちる。


 さっき気づけなかった違和感。


 何もできなかった自分。



(全然、足りてない)



 ぎゅっと、指先に力が入る。



(あの人の隣に立つなら)


(もっとちゃんとしなきゃ)



 ただ好きって思うだけじゃ、だめだ。


 そんな気がした。



「……サヤ?」



 ミネルが少しだけ不安そうに見る。



「……ううん」



 小さく首を振る。



「大丈夫」



 笑う。


 少しだけ、ぎこちないけど。



(……ちゃんと)


(胸張って言えるようになったら)


(隣に立ちたい)



 まだ、立てない。


 でも。


 伝えたい。



 そのために。


 サヤはもう一度、ミネルの方を見る。


 今やるべきことは、はっきりしていた。



「……深呼吸、もう一回やってみよっか」



 少しだけ、前より優しく言える。


 ミネルが小さく頷く。


 その呼吸を、今度はちゃんと見逃さない。





 静かな朝だった。


 でも、その中で。


 ひとつだけ、確かに変わったものがあった。


 まだ届かない距離。


 でも。


 その距離の意味を、初めて知った朝だった。

いよいよですが、まだまだ終わりはしません。

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