第19話「選ぶ理由」
院長室は、静かだった。
外の喧騒が嘘みたいに遠い。
整えられた机と、無駄のない空間。
その中心に、三人だけがいる。
「……本当に戻らないのか」
「無理にとは言わない。お前が決めればいい」
「だが、戻ってきてくれたら嬉しいとは思っている」
静かな本音だった。
空気がわずかに揺れる。
その隣で、部長が口を開く。
「ポストは用意できる」
「待遇も問題ない」
「戻れる環境はある」
事実だけを並べる。
「お前の能力なら、すぐにでも以前の位置に戻れる」
沈黙。
ヘンリーはゆっくりと息を吐く。
(……戻る、か)
一瞬だけ、過去がよぎる。
判断を誤った日。
助けられなかった命。
(全部を背負うのは、もういい)
その考えは、変わらない。
「……戻るつもりはないです」
はっきりと告げる。
部長の眉が、わずかに動く。
院長は何も言わない。
ただ、続きを待っている。
少しの間。
「……少し考えさせてください」
静かに落とす。
完全な拒絶ではない。
だが、受け入れでもない。
院長はゆっくりと頷く。
「……そうか」
それ以上は何も言わない。
「時間はある」
最後にそれだけ。
部長は小さく息を吐く。
「……検討しておけ」
事務的に言い切る。
話は終わりだった。
ヘンリーは席を立つ。
扉を開ける。
⸻
廊下。
空気が一気に軽くなる。
数歩、歩いたところで。
「なんで戻らないんですか」
足が止まる。
ラーナだった。
まっすぐに見てくる。
「現場にいた方が、助かる命増えますよね」
ヘンリーは何も言わない。
ラーナは続ける。
「見てました」
「ミネルの時のこと」
静かに。
でも、強く。
「……あんなの」
言葉を選ぶように、少しだけ間を置く。
「簡単にできることじゃないです」
沈黙。
「少なくとも」
もう一度、はっきりと。
「現場を離れた人の動きじゃない」
ラーナはそこでようやく視線を外す。
「……だから」
小さく、でも確かに。
「戻らない理由、分からないです」
それだけ言って、視線を逸らす。
ヘンリーは、わずかに目を細める。
(……分からない、か)
小さく息を吐く。
⸻
思い出す。
ICU。
ガラス越しに見えた姿。
サヤ。
(……あいつは)
(いつも、迷わず、踏み込んできたな)
あの時の記憶がよぎる。
手首を掴んだ感触。
近すぎた距離。
赤くなった顔。
(それでも、引かなかった)
小さく、息を吐く。
『……ヘンリーさんが何か困ってるのであれば、助けたいと思ってます』
あの時の声。
迷いのない目。
(……助けたい、か)
⸻
「……ヘンリー先生」
一拍、間を置いてから。
「いないと、困ります」
「ちゃんと、助かってる人がいます」
別の声。
振り返る。
サヤだった。
少しだけ息を切らしている。
「すみません、記録のことで、探してて……」
そこまで言って、言葉が止まる。
さっきの話を、聞いていたのだと分かる。
一瞬、迷う。
それでも、言う。
「……さっきの話、聞こえちゃって」
視線を上げる。
「……ヘンリー先生がいると」
「助かる人、たくさんいると思います」
まっすぐだった。
迷いも、打算もない。
ただ、それだけ。
(……いないと、困る、か)
(……そう思って、見てるやつがいるなら)
「……そうか」
一拍。
「……なら」
「必要な時だけ出る」
「難しい症例と、判断が必要な場面だけ」
「……それでいい」
迷いはなかった。
サヤは少しだけ驚いてから――
「……はい。分かりました」
小さく、でもどこか嬉しそうに頷く。
ラーナは何も言わない。
ただ、その背中を見ている。
(……やっぱり、この人すごい)
同時に。
(だからこそ)
(追いつきたい)
その決意が、静かに根を張る。
ヘンリーは、もう振り返らない。
選んだのは、“戻るかどうか”じゃない。
“どう在るか”を、選んだ。




