第14話「脈動の先」
その夜、ICUの前は変わらなかった。
ガラス越しの室内だけが、現実から切り取られたように静かだった。
サヤは椅子に座ったまま、しばらく動けずにいた。
目だけが、ミネルを追っている。
(まだ、眠ってる)
(でも……生きてる)
その事実を、何度も繰り返す。
安心したいのに、どこかで引っかかる。
モニターの音が、一定のリズムで鳴っていた。
その音だけが、「ここにいる」と教えてくれる。
⸻
モニターの音が、少しだけ変わった気がした。
それが、朝の始まりだった。
記録に目を落としたまま、時間の感覚が抜けていた。
気づけば、廊下に朝の光が差し込んでいる。
「……ミネル」
小さく呼ぶ。
返事はない。
それでも、名前を口にすることで、ようやく現実に触れられる気がした。
そのときだった。
指先が、わずかに動いた。
サヤの呼吸が止まる。
「……え?」
もう一度。
今度ははっきりと、指が動く。
看護師がすぐに反応する。
「意識反応あり」
「瞳孔確認します」
空気が一気に変わる。
ミネルのまぶたが、ゆっくりと開く。
まだ焦点は合っていない。
それでも、“戻ってきている”ことだけは分かる。
サヤは立ち上がる。
「ミネル……!」
視線が、わずかに動く。
ぼんやりと、天井からサヤの方へ。
しばらくして、かすれた声が落ちる。
「……サ、ヤ……?」
その一言で、サヤの表情が崩れる。
「……うん、いるよ……ここにいる……」
何度も、何度も繰り返す。
その声を聞きながら、ミネルはゆっくりと目を閉じた。
それでも、その表情はさっきよりずっと穏やかだった。
⸻
少し離れた廊下。
ヘンリーはその様子を見ていた。
ガラス越しに、音は届かない。
(……戻ったか)
それだけを確認するように、視線が止まる。
やがて、自然と視線が動く。
ミネルではなく。
その隣にいるサヤへ。
理由はない。
ただ、目に入る。
⸻
時間が少し過ぎたあと。
サヤはICUの前で、記録をまとめていた。
ペンを動かしながらも、何度もガラスの向こうへ視線が向く。
(ちゃんと、戻ってきてる)
そう思うたびに、胸の奥が少しだけ緩む。
でも、完全にはほどけない。
「……よかった」
小さく、息のようにこぼれる。
⸻
その姿を、少し離れた場所から見ている視線があった。
ヘンリーだった。
(まだ、あそこにいるか)
意識して見たわけではない。
だが、視界に入るたびに、目が止まる。
サヤはミネルに話しかけている。
声は聞こえないのに、不思議と残る。
その様子を見ていて、ふと気づく。
(また、見てるな)
理由は分からない。
手術は終わったはずなのに、
視線だけが、まだあの場所に戻ってしまう。
サヤの表情を追っている。
今度は、はっきりとした自覚だった。
⸻
ナースステーションの前。
サヤが一瞬だけ顔を上げる。
視線が合う。
ほんの一瞬。
サヤはすぐに目をそらす。
「すみません」と小さく頭を下げて、ミネルの方へ戻っていく。
その背中を、ヘンリーは見ていた。
理由は分からない。
だが、なぜか目を離せなかった。
⸻
ICUの前。
サヤは椅子にもたれたまま、気を張っていた糸が切れたみたいに、意識が落ちていた。
手に持っていた書類が、少しだけ傾いている。
廊下に足音が近づく。
止まる。
ヘンリーだった。
視線だけが、静かに落ちる。
(……寝てるのか)
無防備な顔。
規則的な呼吸。
一瞬だけ、動きが止まる。
考えるより先に、手が動いた。
無意識に近い動きだった。
サヤの頭に、軽く手を伸ばす。
触れる直前で、ほんの少しだけ迷う。
それでも指先が、髪に触れた。
すぐに離れる。
何事もなかったように、歩き出す。
⸻
しばらく経って、
サヤはゆっくりと目を開ける。
(……なんだろう)
何かが残っている。
だが、それは言葉にならない。
知らないはずなのに、少しだけ落ち着くような違和感。
「サヤ、交代来たから一旦上がっていいよ」
同僚の声に、ゆっくりと頷く。
ミネルを見る。
まだ眠っているが、状態は安定している。
「……また来るね」
小さく呟いて、その場を離れる。
⸻
廊下に出る。
朝の空気。
ふと、足が止まる。
(さっきの人……)
ナースステーションで目が合った医者の顔が、ぼんやり浮かぶ。
すぐに消えるのに、なぜか消えきらない。
振り返る。
誰もいない廊下。
それでも――
さっきまでそこにあった“視線”だけが、まだ残っている気がした。
サヤはゆっくりと歩き出す。
その違和感を、まだ名前のつかないまま抱えながら。
やっと。次回から。動き始めますよ!




