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第15話「ヘンリー・グレーテル」

 翌日。


 夜勤明けの疲れは、完全には抜けていなかった。


 それでもサヤは一度寮に戻り、短い睡眠だけ取って病院へ向かっていた。





 病院の入口をくぐると、昨日と同じような忙しさがすでに動き出している。


 ただ、空気はどこか落ち着いていた。



(今日から日勤……)



 気持ちを切り替えるように、ナースステーションへ向かう。





「おはようございます」


 先輩に挨拶をすると、軽く頷きが返ってくる。


 そのまま書類整理に入ろうとしたときだった。



「そういえばサヤ」



 先輩がふと声をかける。



「昨日のミネルの件、担当医変わったの知ってる?」



 サヤは手を止める。



「……変わったんですか?」


「うん。急にね」


「上の指示で、別の医師が全面的に入ったの」



(……別の医師)



 その言葉だけが少し引っかかる。



「その先生って……どんな人なんですか?」



 サヤは何気なく聞いた。


 先輩は少しだけ視線を上げてから答える。



「ヘンリー先生……って呼んでるけどね」



 少し間を置いて、



「ヘンリー・グレーテル先生」



 その瞬間。


 サヤの手が止まる。


 ペン先が止まり、インクが一箇所にじわりと滲む。



(グレーテル……?)


(……違う)



 そんなはずない。


 あの人が?


 でも――





 無愛想な横顔。


 何も言わず通り過ぎた背中。


 白衣の姿。





 全部が、同じ形で重なっていく。



(あの人だ)


(……やっぱり)


(うそでしょ)



 心臓が、変に速くなる。


 一瞬だけ、息の仕方がわからなくなる。


 でも――否定できない。


 むしろ、全部が繋がってしまう。



 サヤは小さく首をかしげる。



「グレーテル……さん?」



 先輩は軽く笑う。



「そうそう、そのグレーテルさん」


「たまに用務員みたいな動きしてるけどね」



 その言葉で、サヤの中に断片が浮かぶ。



(あのグレーテルさん……?)



 無愛想で、何を考えているかわからなくて。


 でも、どこか気になっていた人。


 その全部が、一気に意味を変えてしまう。


 はっきりと名前を聞いた瞬間、


 もう、誤魔化せなくなる。





 同じ頃。


 ICU側の廊下。


 ヘンリーは患者データを確認していた。


 無駄のない動きで、静かに状況を整理していく。


 ヘンリーは書類をめくる。


 自分の名前がどこかで呼ばれていることには、まだ気づいていない。





 すれ違う看護師たちの小さな会話。



「やっぱりヘンリー先生なんだ」


「現場も普通に出るんだね」



 その声は、彼に届かない。


 ただ事実として流れていくだけだった。





 ナースステーション。


 サヤは書類を持ったまま、ふと動きを止める。



(ヘンリー先生……)



 先輩の言葉と、さっきの断片がゆっくり繋がっていく。


 用務員のように見えたあの人。


 白衣で歩いていたあの人。


 それが同じ存在だとしたら。



 理解が追いつくまで、少し時間がかかる。



(でも……)



 もう“知らない人”ではなかった。



 名前がついたことで、距離が少しだけ変わってしまった。



「ヘンリー先生」



 その名前を、心の中でなぞる。


 少しだけ、怖くなる。


 それでも――


 目を逸らせない。

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