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第12話「切開」

 夜の病棟は、異様な静けさに包まれていた。


 ミネルの状態は安定していないまま、手術準備だけが静かに進んでいく。


 廊下を行き交う足音だけが、やけに大きく響く。



 ラーナは本来なら退勤しているはずの時間だった。


 それでもまだ病棟に残っていた。



(……ミネル)



 ミネルの状態が、頭から離れなかった。



「ラーナ、手術室補助入れる?」



 一瞬の間。



「入ります」





 手術室前。


 ヘンリーは白衣のまま立っていた。


 その姿に、もう迷いはない。



「準備状況は」



 短い問いに、看護師が即座に答える。



「全員揃っています。麻酔科も待機しています」


「輸血ライン確保済み」


「感染対策も完了」





 一つずつ確認していくたびに、現場が“整っていく”。


 その少し離れた場所に、サヤがいた。


 一睡もしていない顔。


 それでも目だけは、手術室の扉から離れない。



(ミネル……)



 声にならないまま、唇だけが動く。





 ヘンリーは一度だけ、その存在に気づく。


 だが視線は交わさない。


 交わす必要がない。



「入室する」



 その一言で、全員が動いた。





 手術室。


 無機質な光。


 機械音。


 規則正しい緊張。



(……この医師、何かが違う)



 ラーナは一瞬で、そう分かった





「麻酔導入」


 淡々と声が飛ぶ。


 モニターの数字がゆっくりと変わっていく。



「安定確認」


「呼吸管理問題なし」



 一瞬の静寂。



 ヘンリーは患者の上に視線を落とす。


 ミネルの顔。


 眠っているような、危うい静けさ。



(ここからだ)



「切開」



 メスが入る。


 空気が変わる。



 音が減る。


 無駄が消える。


 代わりに、“判断”だけが増えていく



「感染部位確認」


「拡大している、想定より深い」


「予定ルート修正」



「出血管理」


「止血、優先」



 声が飛ぶたびに、場が少しずつ締まっていく。



 ヘンリーの指は止まらない。


 無駄な動きが、一つもない。


 まるで最初からすべて見えているみたいに。


 迷いもない。


 ただ“最短”だけを選び続けている。





 ラーナは目まぐるしく動く現場で圧倒されていた。



(……無駄がない)


(最初から、そこしか見えてない)


(……違う)


(見えてる範囲が、そもそも違う)





 そのとき。


 モニターの数値が一瞬だけ揺れる。



「血圧低下」



 空気がわずかに変わる。



「補液急げ」


「循環維持優先」



 誰かが息を呑む。


 その瞬間だけ、ヘンリーの視界がわずかに揺れる。


 ノア・パーカー。



(止められなかった)


(――あいつにも、同じ顔をさせる気か)



 だが次の瞬間、その思考は切り捨てられる。



「問題ない」



 短く、静かに。



「続行する」



 その声で、場が戻る。


 手術は再び動き出す。





 廊下。


 サヤは指示された記録をまとめながら、何度も手術室の扉に視線を向けていた。


 音は聞こえない。


 ただ“向こう側で何かが起きている”ことだけがわかる。



(お願い……)


(……でも、あの人なら、きっと)


(だから、私もここで間違えない)



 そのとき、扉が一瞬だけ開く。


 1人の看護師が外へ出る。


 サヤは反射的に一歩踏み出す。



「状況は?」



 声が震えている。


 看護師は短く言う。



「まだ途中です」


「ですが……進んでいます」



 それだけで、サヤの力が少し抜ける。


 それでも、何度もペン先が止まる。


 数字を書き間違えそうになって、慌てて書き直す。





 手術室の中。


 ヘンリーは一度も止まらない。



「感染源、除去完了」


「洗浄」


「再確認」



 静かに、確実に。


 そして。



「縫合へ移行」



 空気が、ほんの少しだけ緩む。


 それでも誰も安心しない。


 まだ終わっていない。


 ヘンリーは最後に一度だけミネルを見る。


 その目に、何かを重ねることはしない。


 ただ、処理する。


 ただ、間に合わせるために。



(今度は)


(止めない)


(あいつの前で)



 わずかに、指先にだけ力が入る。

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