第11話「再起」
朝の病院は、いつもより騒がしかった。
担架の音。慌ただしい足音。
「ミネルが搬送された」
そんな断片的な言葉が、耳に入る。
グレーテルは足を止めた。
サヤの様子が、少しだけおかしかった。
理由の分からない違和感が、残っていた。
(……そういうことか)
ミネルの病室前では、医師たちの声が交錯していた。
「既往歴がここまで響くとは……」
「感染症の進行が速すぎる」
「このままだと、手を出せる選択肢が少ない」
数字とデータが、答えにならないまま積み上がっていく。
グレーテルは、その少し後ろに立っていた。
用務員として。
誰にも気づかれない距離で。
(どれも弱い)
(どれも、遅い)
胸の奥で、静かに何かがずれる。
(この症例なら)
(このルートが一番安定する)
指先が、わずかに動く。
(昔の俺なら)
(もう決めてる)
⸻
――何もできないまま
時間だけが過ぎていた。
⸻
夕方。サヤが再び出勤してきた。
気づけば、その背中を追っていた。
⸻
ミネルの病室の前。
ドアの隙間から、声が漏れている。
サヤの声だった。
ベッドの横。ミネルの手を握ったまま、離していない。
(あの頃も、こうやって手を握ってた気がする……)
「昨日の朝も少しだけ、顔色悪かったね」
「でも……ちゃんと休めてたなら、それでよかったって思う」
小さな笑いのような息。
「無理してたら怒るつもりだったけど……」
声が少し揺れる。
「ミネルがいなくなったら、わたし……」
そこで言葉が止まる。
「……わたし……」
続きは出てこない。
そのまま、サヤの体がゆっくりと傾く。
椅子にもたれたまま、眠るように意識が落ちていく。
⸻
グレーテルは動かないまま、その光景を見ていた。
(ミネルがいなくなったら)
(わたし……)
その言葉だけが、胸の奥に沈む。
(あの顔が、消える)
(サヤが、壊れる)
その瞬間だった。
ミネルの顔が、脳裏に浮かぶ。
そのすぐ隣に、別の顔が重なる。
ノア・パーカー。
呼吸が、一瞬だけ止まる。
(……まだ、間に合う)
グレーテルは歩き出した。
誰にも告げずに。
⸻
洗面所。
鏡の前に立つ。
一瞬だけ、動きが止まる。
(何年ぶりだ)
蛇口の音。
水が流れる。
手が動く。
刃が肌に触れる。
迷いはない。
髭が落ちていく。
続いて、髪を束ねる。
後ろで一つに結ぶ。
それだけで、空気が変わる。
鏡の中の男が、少しだけ別人のように見えた。
(……戻る)
⸻
院長室の扉を開く。
「戻ります」
院長は何も言わない。
「ミネルの症例、把握しています」
一拍。
「……間に合うか?」
「間に合わせます」
静かな声だった。
――迷いはなかった。
院長が、ただ一度だけ頷いた。
だが、それで十分だった。
⸻
白衣を羽織る。
ばさり、と音が鳴る。
その瞬間、空気が切り替わる。
⸻
躊躇なく医局に入り、
グレーテルは一歩前に出る。
「患者、ミネル・サルダールの対応、これから俺が仕切る」
一瞬、周囲が止まる。
「ヘンリー・グレーテルだ」
低い声。
静かな圧。
誰かが息を呑む。
「ここからは、俺が指揮する」
指示が飛び始める。
無駄が消える。
判断が速くなる。
さっきまでの迷いは、もうどこにもない。
⸻
数人の医師が集まる。
資料が開かれる。
ルートが組み直される。
「この方法でいく」
「準備を30分以内に終わらせろ」
「優先順位はこっちだ」
声が止まらない。
現場が動き出す。
⸻
廊下。
ミネルの病室へ向かう途中。
そこに、サヤがいた。
目の下には疲労。
一睡もしていない顔。
視線がぶつかった瞬間、サヤは固まる。
「……誰……?」
その声に、ヘンリーは何も返さない。
ただ通り過ぎる。
その横で、医師の一人が言う。
「今は緊急対応中だ」
「君も現場の人間だろ、持ち場に戻ってくれ」
「……は、い」
サヤは小さく頷く。
だが視線はまだ、背中を追っている。
(さっきの人……誰かに似てるような……)
(どうしてこんなに気になるんだろう)
ヘンリーはもう振り返らない。
ミネルの病室へ向かう。
歩きながら、ただ一つだけ考えていた。
(間に合わせる)
(あいつをあの顔のままには、させない)
覚醒しました。




