第10話「沈む呼吸」
――その日も、朝はいつも通りだった。
⸻
「ミネル、今日ちょっと顔色悪くない?」
サヤが声をかけると、ミネルは少しだけ笑って首を振った。
「風邪気味だったのが、ちょっと長引いてるだけ」
「でも無理しないでね。ちゃんと休んで!」
「うん、ありがと」
軽い会話。
それだけで終わるはずの朝。
ミネルは一度だけ、小さく咳をした。
すぐに、何事もなかったように笑った。
⸻
サヤは気づかなかった。
ミネルの呼吸が、ほんの少し浅いことに。
⸻
*
⸻
午後。
ナースステーション。
「ミネル、早めに上がっていいよ」
上司の声に、ミネルは素直に頷いた。
「すみません、ちょっと休みます」
その背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。
⸻
「ちゃんと休めたんだ……よかった」
サヤはそう呟いて、カルテを閉じた。
⸻
*
⸻
夜。
寮の廊下は静かだった。
時計の針の音だけがやけに響く。
――着信。
ミネルの部屋からだった。
「……?」
サヤは眉をひそめる。
この時間、ミネルの同室の子は夜勤で部屋にいない。
嫌な予感がする。
サヤは通話ボタンを押した。
「ミネル?どうしたの?」
一瞬。
「……サヤ……?」
かすれた声。
確かに、名前を呼んだ。
「ミネル?ミネル!聞こえる!?」
返事はない。
代わりに戻ってきたのは。
ヒュウ……ヒュウ……
(……え?)
呼吸音。
途切れ途切れで、不規則で。
「ミネル!?ねえ、ミネル!?」
返事はない。
ただ、呼吸だけが続く。
(おかしい)
(絶対、おかしい)
サヤはスマホを握りしめた。
「ラーナ……!」
⸻
*
⸻
その後、すぐにラーナとミネルの部屋へ向かう。
ドアを開けた瞬間。
空気が変わった。
「……ミネル!!」
ベッドの上。
動かない身体。
浅く不規則な呼吸。
ラーナがすぐに動く。
「救急呼んで!」
サヤの手が震える。
「ミネル……ねえ、ミネル……!」
返事はない。
⸻
*
⸻
搬送。
慌ただしい廊下。
アラーム音。
白衣の足音。
誰かが言った。
「既往歴あり、感染症による悪化、状態かなり厳しい」
その言葉だけが、やけに冷たく響いた。
⸻
*
⸻
病室。
夜が明けるまで。
サヤはそこにいた。
ミネルの手を握りながら、離せなかった。
ラーナは途中で仮眠を取りながらも、そばにいた。
⸻
*
⸻
朝。
「サヤ、今日わたし日勤入る。代わりに夜勤入って。」
「だから少し休んで」
「……うん」
声はかすれていた。
⸻
*
⸻
病院を出る朝。
空は明るいのに、世界だけが重かった。
(ちゃんと休めたんだって思ってた)
(よかったって、思ってたのに)
(――あの人なら、何かわかるんじゃないか)
(……どうして、あの人の顔が浮かぶんだろう)
胸の奥がうまく息をしない。
⸻
*
⸻
その帰り道。
病院の廊下。
出勤してきたグレーテルと、夜を越えたサヤがすれ違う。
一瞬だけ視線が交わる。
サヤは気づかない。
ただ、ぼんやりと前を向いている。
(何か……おかしい)
(でも、何が……?)
グレーテルは立ち止まる。
その背中を見送る。
ほんのわずかに目を細める。
(……嫌な感じだ)
そう、小さく思った。
そして再び歩き出す。
最初の佳境に入ってきました。




