絶望の反射鏡と、砕かれた仮面
「ハハハハ! 強がっても無駄ですよ! この『絶望の黒霧』は、貴方の心の傷口から入り込み、内側から精神を腐らせるのです!」
審問官イズマイルが杖を振るうたびに、工場のタンクから溢れ出した黒い靄が、亡者の叫びのような音を立てて俺にまとわりつく。 肌に触れるだけで、焼けるような不快感と、過去のトラウマがフラッシュバックする感覚。 普通なら発狂していてもおかしくない。
「……んぅ……うぅ……」 背後では、ミリスとアリアが頭を押さえて苦悶の声を上げている。彼女たちは心の防壁が崩されかけている。
「これ以上はさせない」 俺は『王家の鍵』を逆手に持ち、自分の胸――心臓の前で構えた。
「『状態固定』――精神・絶対零度」
カチリ。 俺は自分の感情の起伏、思考回路の揺らぎを、完全に「固定」した。 恐怖、焦り、怒り。それら全てのノイズを遮断し、ただ目の前の敵を排除する計算機のような冷徹な思考モードへと移行する。
「なっ……!?」 イズマイルが目を見開いた。「霧が……弾かれた? 貴方、心を閉ざしたのですか!?」
「閉ざしたんじゃない。揺らがないように『固定』しただけだ」 俺の目にはもう、亡者の幻覚は見えていない。ただの黒い魔力の塊が見えるだけだ。
「そして、次はあいつらだ」 俺は背後の二人に向けて、鍵を振った。
「『状態固定』――正常化」
アリアとミリスの精神状態を、攻撃を受ける前の「正常値」に強制的に固定し直す。
「ハッ……!?」 アリアがガバッと顔を上げた。「あれ? 頭痛が消えた……? 私、何を怖がってたんだっけ?」
「……ん。悪夢から覚めた気分」 ミリスも立ち上がり、杖を握り直す。その瞳から恐怖の色は消えていた。
「ば、馬鹿な! 一度植え付けられたトラウマを、一瞬で消去しただと!?」 イズマイルが狼狽する。
「残念だったな、ヤブ医者。俺の患者はもう完治した」 俺は一歩踏み出した。
「さて、お前が他人の絶望を利用するなら、俺はその逆を行く」
俺はイズマイルに向かって掌を向けた。 狙うのは彼自身ではない。彼が杖で操っている、タンクから伸びた大量の「黒い靄」そのものだ。
「『空間固定』――因果反転」
俺は靄のベクトルを固定し、その進行方向を180度反転させた。 俺たちに向かってきていた膨大な負のエネルギーが、主であるイズマイルに向かって逆流する。
「な、何っ!? 制御できない!? 靄が戻ってくる!?」
「他人に押し付けようとした絶望だ。お前が味わってみろよ」
ドォォォォォンッ!!
数千人分の悲鳴と怨念が凝縮された黒い奔流が、イズマイルを直撃した。
「ぎゃああああああああああああッ!!」
イズマイルが絶叫し、のたうち回る。 彼の纏っていた深紅の法衣が裂け、顔を覆っていた仮面がパリーンと砕け散った。
露わになったその素顔は――。
「ひっ……」 アリアが息を呑む。
それは、目も鼻もない、のっぺらぼうのような顔だった。 いや、顔がないのではない。 自分の感情を捨て、他人の感情ばかりを弄り続けた結果、自分自身の「個」を失い、虚無に侵食されてしまった成れの果てだ。
「わ、私は……私は誰だ……? 痛い……苦しい……悲しい……!」 イズマイルは自分の顔を掻きむしり、錯乱している。
「哀れな奴だ」 俺は冷たく見下ろした。「自分を持たない奴が、他人の心を支配できるわけがない」
「トドメよ、レン!」 アリアが剣に炎を纏わせ、疾走する。 「あんたが吸い上げた人たちの怒り、まとめて受け取りなさい! 『炎帝・煉獄斬』!」
ズパァァァンッ!!
紅蓮の一撃が、錯乱するイズマイルの体を薙ぎ払った。 彼は黒い霧となって霧散し、後には砕けた仮面の欠片だけが残った。
同時に、工場の機械音が停止した。 イズマイルの魔力供給が途絶えたことで、感情抽出システムがダウンしたのだ。
「終わった……の?」 ミリスが周囲を見回す。 ベルトコンベアに乗せられていた人々が、拘束具が外れて次々と目を覚まし始めていた。
「う……ここは……?」 「私、何を……?」
彼らの表情には、まだ戸惑いがあるが、あの不気味な作り笑いは消えている。 人間らしい、不安や恐怖を含んだ「普通の顔」に戻っていた。
「……ん。やっぱり、怒ったり泣いたりできる方がいい」 ミリスが安心したように呟く。
「そうだな。さて、こいつを壊しておかないとな」 俺は中央の巨大タンク――絶望の結晶が溜まった容器を見上げた。 これを放置すれば、また誰かが悪用しかねない。
「『事象固定』――完全分解」
俺が鍵で触れると、タンクと結晶は光の粒子となって分解され、大気中へと霧散していった。 負のエネルギーは浄化され、ただの魔素となって消えていく。
「お兄ちゃんたち!」
通気口からカイルが降りてきた。 解放された人々の中に、自分の父親を見つけたようだ。
「パパ! パパ!」 「カイル……? ああ、カイルか……!」
抱き合う親子を見て、アリアが涙ぐんでいる。 俺も小さく息を吐いた。
だが、感傷に浸っている時間はない。 工場の奥、さらに地下深くへと続く巨大な扉が開いていたからだ。 そこからは、今までとは桁違いの、神々しくも冷徹な魔力が流れ出してきている。
「……教皇だ」 俺はその気配だけで確信した。 この奥に、全ての黒幕がいる。
「行こう。あいつが待ってる」
俺たちは再会を喜ぶ人々を背に、聖都の最深部――『神の座』へと続く暗闇の回廊へと足を踏み入れた。




