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幸福という名の牢獄

「……ねえ、レン。このシチュー、すっごく美味しいんだけど……なんか怖くない?」


 聖都エデンの大通りに面した食堂。  アリアがスプーンを持ったまま、複雑な表情で皿を見つめていた。


「味が、完璧すぎるのよ。塩加減も、野菜の煮込み具合も、私の好みにドンピシャなの。……まるで、私が一番美味しいと感じる味を『知っていて』作られたみたいに」


「……ん。私のパンも。今まで食べた中で一番ふわふわ」  ミリスもパンを頬張りながら、どこか落ち着かない様子だ。


「ここに来てからずっとそうだな」  俺は冷めた水を見つめた。  この街は快適すぎる。  宿のベッドの硬さ、吹く風の温度、すれ違う人々の挨拶。全てにおいてストレスがない。  だが、それは人間的な温かみではなく、徹底的に計算され尽くしたデータによる管理を感じさせる。


「食事に微弱な『精神安定魔法』がかけられているな」  俺は小声で告げた。 「食べるたびに、不安や疑問が消え、多幸感だけが残るように調整されている。……一種の麻薬だ」


「うぇっ!? ペッ、ペッ!」  アリアが慌てて水を飲む。「信じらんない! ご飯まで洗脳の道具にするなんて!」


 その時だった。


 ゴーン、ゴーン、ゴーン……。


 街の中央、教皇庁のある方角から、重厚な鐘の音が響き渡った。  すると、食堂にいた客たちも、外を歩く人々も、一斉に動きを止めた。


「ああ、聖なるときだ……」 「神よ、我らに安らぎを」


 彼らはその場に跪き、恍惚とした表情で祈りを捧げ始めた。  誰一人として例外はいない。料理を運んでいたウェイターも、遊んでいた子供も、まるでスイッチを切られたロボットのように、同じ姿勢で固まっている。


「……異様ね」  アリアが剣の柄に手をかける。  俺たちだけが立っているのは目立つ。俺は二人を促し、物陰へと身を隠した。


 静寂が支配する大通り。  聞こえるのは、数千人の人々がボソボソと唱える祈りの声だけ。


 だが、その調和を乱す叫び声が上がった。


「い、いやだ……! やめろ……俺の頭に入ってくるなァァァッ!」


 広場の噴水近くで、一人の少年が頭を抱えて転げ回っていた。  年齢は十歳くらいか。彼は祈ることを拒絶し、見えない何かと戦うように暴れている。


「ママのこと……忘れたくない! 僕から記憶を奪うな!」


 周囲の人々は、少年を助けようともしなかった。  ただ、哀れむような、それでいて冷淡な笑顔を向けているだけだ。


「おやおや、可哀想に」 「まだ『適合』できていないのですね」 「早く『再教育』してあげないと」


 人波が割れ、白い鎧を着た聖堂騎士たちが現れた。  彼らは暴れる少年を取り囲み、優しげな口調で言った。


「さあ、迷える子羊よ。痛いのは、君の中に『エゴ』という穢れが残っているからだ」 「施設へ行こう。そうすれば、苦しみは消えて、みんなと同じ幸せになれる」


 騎士の一人が、少年の首筋に手を伸ばす。その手には、魔法で拘束するためのかせが握られている。


「いやだ! 離せ! 助けてぇぇッ!」


「……もう、我慢できない!」


 俺が止める間もなく、アリアが飛び出した。  疾風のように広場へ駆け込み、騎士と少年の間に割って入る。


「子供が嫌がってるでしょ! 離しなさいよ!」  アリアが鞘に入ったままの剣で、騎士の手を弾き飛ばす。


「なっ……何者だ!?」  聖堂騎士たちが驚愕し、周囲の市民たちもざわめき出した。


「異端者か? 神聖なる儀式を邪魔するとは」 「排除せよ。聖都の平穏を乱す者は許されない」


 騎士たちが一斉に抜刀し、殺気を放つ。  その目は、先ほどまでの慈愛に満ちたものとは別人のように、冷徹な殺人者の目に変わっていた。


「やれやれ……。隠密行動って言ったのに」  俺はため息をつきつつ、ミリスと共に物陰から出た。 「まあいい。俺も、胸糞悪いのは同感だ」


 俺は指をパチンと鳴らした。


「『空間固定』――重力ロック」


 ズンッ!!


 少年に近づこうとしていた騎士たち五人が、突然地面に縫い付けられたように動けなくなった。  彼らの鎧にかかる重力加速度だけを、局所的に十倍に固定したのだ。


「ぐぅっ!? 体が……動かん!?」 「き、貴様らは……!」


「通りすがりの巡礼者だよ」  俺は少年の手を取り、引き起こした。


「立てるか? 逃げるぞ」 「え……? う、うん……」


「アリア、ミリス! 道を開けろ!」 「任せて!」 「……ん。氷の道を作る」


 ミリスが地面を凍らせてスロープを作り、俺たちはその上を滑るようにして路地裏へと逃げ込んだ。  背後で警笛が鳴り響き、「侵入者だ!」「異端者を捕らえろ!」という声が広がる。


          ◇


 複雑に入り組んだ路地裏の廃墟。  追っ手を撒いた俺たちは、息を切らして座り込んだ。


「はぁ、はぁ……。やったわね、完全に指名手配よ」  アリアが苦笑するが、後悔はしていないようだ。


「ありがとう……お兄ちゃんたち」  助けた少年――名をカイルと言った――が、震えながら頭を下げた。


「いいってことよ。……それより、さっき言ってた『記憶を奪う』ってどういうことだ?」  俺が問うと、カイルは恐怖に顔を歪めた。


「……この街は、変なんだ」  カイルはポツリと言った。


「みんな、ここに来ると幸せになれるって言うけど……違う。  定期的に『鐘』が鳴って、それを聞くと頭がボーッとして……嫌なことや、悲しいことを全部忘れちゃうんだ。  僕のパパも、ママが死んだのに、次の日にはニコニコ笑ってた。『そんな人いたっけ?』って……!」


「記憶の消去、あるいは感情の改変か」  俺は確信した。  教団は、信者たちの負の感情を取り除き、従順な「幸福な家畜」に作り変えている。  だが、その「取り除かれた感情」はどこへ行く?


「……施設」  カイルが小さな声で続けた。 「適合できない子は、『再教育施設』に連れて行かれるんだ。大聖堂の地下にある工場へ……。そこに行った子は、二度と帰ってこないか、完全に『真っ白』になって帰ってくる」


「大聖堂の地下……。そこが本丸か」  俺は立ち上がった。


「案内してくれるか、カイル。その工場の入り口まで」 「えっ!? で、でも……あそこには怖い『審問官』がいるよ?」


「大丈夫だ」  俺は少年の頭に手を置いた。


「俺たちは、その怖い連中にお灸を据えに来た『しつけ係』だからな」


 幸福な牢獄の地下に眠る闇。  俺たちは次なる目的地を『再教育施設』に定め、行動を開始した。

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