事象の固定と反転する絶望
「生意気な……! 神の領域を侵す小童が!」
ジークが咆哮すると、広間の空気が軋むような音を立てて震えた。 彼の両手の間に、漆黒の球体が生成される。光さえも逃げ出せないような、極小のブラックホール――『重力特異点』だ。
「消え失せろ! 『虚空崩壊』!」
ジークが球体を投げつける。 それはゆっくりとした速度で飛んできたが、その軌道上にある全ての物体――床の石畳、舞い上がる塵、空気さえもが、強烈な引力に引き寄せられ、圧縮されて消滅していく。 触れれば最後、俺たちも分子レベルで圧縮され、塵すら残らないだろう。
「レン、あれはまずい! 魔力防御なんて意味がないわ!」 背後でアリアが叫ぶ。
「わかってる」 俺は冷静だった。いや、かつてないほど感覚が研ぎ澄まされていた。 手の中にある『王家の鍵』が、俺の魔力回路と接続され、脳内で膨大な情報が処理されていく感覚。
(重力とは、空間の歪みによって生じる力……)
父さんの研究データがフラッシュバックする。 質量ある物体が空間を沈み込ませ、そこに物が落ちる現象。それが重力だ。 ならば――空間そのものを平坦に『固定』してしまえば、重力は発生しない。
「来い、『事象固定』」
俺は迫りくる黒い球体に向けて、掌をかざした。 イメージするのは「壁」ではない。 そこにある空間の座標が、何があっても「1ミリたりとも動かない」という絶対の事実。
キィィィィンッ!!
黒い球体が、俺の目の前50センチでピタリと止まった。 ジークの目が驚愕に見開かれる。
「な、なんだと!? 特異点を止めた……だと? 重力の渦を力技で抑え込めるはずがない!」
「力で抑えてるんじゃない」 俺は汗一つかかずに言った。 「空間の『形』を固定したんだ。お前がどれだけ空間をねじ曲げて重を作ろうとしても、俺が『平面だ』と定義すれば、そこはただの平らな空間に戻る」
俺が指を弾くと、黒い球体は行き場を失い、プシュンと情けない音を立てて霧散した。
「ば、馬鹿な……。ありえん……!」 ジークが後ずさる。自身の最強魔法を無効化された動揺は隠せない。
「今度はこちらの番だ」
俺は一歩踏み出す。 ジークは咄嗟に防御壁を展開しようとするが、俺の狙いは彼自身ではない。
「お前は重力で俺たちを押し潰そうとしたな。なら、お前には『何も無い恐怖』を味わってもらおう」
俺はジークの周囲の空間を見据え、その「状態」を書き換えた。
「『大気固定』――完全停止」
ジークの周囲半径2メートル。その空間にある空気の分子運動を、完全に『固定(停止)』させた。 熱エネルギーとは、分子の運動のことだ。 運動が止まるということは、熱が消えるということ。そして、気体が流動性を失い、固形物のように凝固するということだ。
カキィィィンッ!
一瞬にして、ジークの周囲が絶対零度に近い極低温の牢獄と化した。 空気そのものが凍りつき、見えない氷山の中に閉じ込められた状態。 呼吸をしようにも、肺に空気が入ってこない。身動きを取ろうにも、空気がコンクリートのように硬化して動けない。
「が、ぁ……ッ!?」
ジークの顔が青紫色に変わる。 音すらも空気を振動させられないため、彼の悲鳴は誰にも届かない。 重力を操る最強の処刑人も、呼吸ができなければただの人だ。
「終わりだ、ジーク」
俺は『王家の鍵』を懐にしまい、凍りついた空間の前で告げた。 殺すつもりはない。だが、これ以上邪魔をさせるわけにはいかない。
意識が遠のき、白目を剥いて崩れ落ちそうになるジーク。 俺は『固定』を解除した。
ドサッ。
新鮮な空気が流れ込むと同時に、ジークはその場に倒れ伏し、激しく咳き込んだ。 「げほっ、ごほっ……! はぁ、はぁ……」
彼は震える手で地面を掴み、恐怖に染まった目で俺を見上げた。 そこにはもう、傲慢な審問官の姿はない。未知の力に屈服した、一人の敗北者がいるだけだった。
「……殺せ。異端に情けをかけられるなど……」 「情けじゃない。ただ、父さんと母さんが守ろうとした世界に、お前も含まれてるってだけだ」
俺は彼に背を向けた。 アリアとミリスが駆け寄ってくる。
「レン! 凄すぎるわよ! あのジークを完封なんて!」 「ん。レン、最強」
二人の笑顔を見て、俺はようやく肩の力を抜いた。 勝った。 これで、始祖の遺産を巡る戦いは――ひとまずの区切りがついたはずだ。
だが、倒れ伏したジークが、最後に不吉な言葉を呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。
「……後悔するぞ。まだ教団が……『彼ら』が、黙ってはいない……」
彼ら? 教団の背後に、まだ何かがいるのか? 俺の胸に微かな不安がよぎったが、今はただ、無事に生還できたことを喜ぶことにした。
「帰ろう。俺たちの家に」
極北の遺跡に眠る真実を手に入れた俺たちは、長い長い帰り道へと足を踏み出した。




