メビウスの氷窟と無限の番人
「うっぷ……。もう無理、吐きそう……」
氷の洞窟に入って十分足らず。 アリアが青ざめた顔で口元を押さえ、壁(だと思われる氷)に手をついた。
「だらしないわね、アリア。剣士なら三半规管を鍛えるべき」 ミリスは平然としているが、その足取りは少しおぼつかない。
無理もない。 『常闇の氷河』の内部――通称『メビウスの氷窟』は、人間の平衡感覚を完全に破壊する構造になっていた。
天井を歩いていると思ったら、いつの間にか壁を歩いている。 前進しているはずなのに、後ろから自分の足音が聞こえる。 重力の方向すら一定ではなく、油断すると「空へ落ちて」しまいそうになるのだ。
「俺のそばから離れるなよ。空間の『繋ぎ目』を見失ったら、二度と元の場所には戻れないぞ」
俺は慎重に歩を進める。 目に見える景色はアテにならない。頼れるのは、肌で感じる「空間の綻び」の感覚だけだ。俺には、この歪んだ空間に薄く引かれた「正しい順路」のような魔力のラインが、ぼんやりと見えていた。
(これも、始祖の血の力か……)
まるで実家に帰ってきたような奇妙な安心感すらある。 だが、遺跡の防衛機能は、単なる迷路だけではなかった。
ズズズ……ッ。
不快な地響きとともに、前方の氷壁が盛り上がり、巨人の形を成していく。 全長三メートル。全身が半透明の氷で構成されたゴーレムだ。 だが、その姿はどこかおかしい。
「なに、あれ……? 右腕が、左足に繋がってる?」
アリアが呻くように言った。 その通りだ。ゴーレムの右肩から伸びた腕が、ありえない角度でねじれ、自分自身の左太ももと融合している。頭部があるべき場所には空洞があり、胸に顔がついている。 まるで、空間の歪みそのものを体現したような、悪夢じみた造形。
「『歪曲の番人』……ってところか」
俺が警戒を促すより早く、ゴーレムが動いた。 その巨体からは想像できない速度で、滑るように距離を詰めてくる。
「気持ち悪いけど、叩き壊せば終わりでしょ!」 アリアが吐き気を振り払い、剣を振るう。
Sランクに足を突っ込んだ彼女の斬撃は鋭い。炎を纏った一撃が、ゴーレムの胴体を袈裟懸けに切り裂いた――はずだった。
キンッ!
金属音とともに、アリアの剣が弾かれる。 氷が硬いわけではない。 斬った感触すらなかった。
「えっ……!?」 アリアが目を見開く。
彼女の剣は、ゴーレムの右肩付近を通過した瞬間、空間の切れ目に吸い込まれ、アリア自身の背後から飛び出してきたのだ。
「危ない!」 俺はとっさに『固定』を発動し、アリアの背後に小さな障壁を作った。 カィン! と、自分の剣で自分を斬りそうになったアリアが、冷や汗まみれで飛び退く。
「な、なによ今の!? 空間転移!?」 「いや、空間が『ループ』してるんだ」
俺は冷徹に分析する。 あのゴーレムの周囲は、空間が複雑に折り畳まれている。攻撃を当てようとしても、そのベクトルがねじ曲げられ、別の場所へ飛ばされてしまう。
「ウオォォォォ……」 ゴーレムが腕を振り上げる。 その拳が空を殴った瞬間、俺たちの真下の地面から巨大な氷の拳が突き出てきた。
「くっ!」 ミリスが氷の壁を作って防ぐが、衝撃で吹き飛ばされる。 距離も方向も無茶苦茶だ。これじゃ防御も回避もままならない。
「レン、どうするの!? 近づけないし、離れても攻撃が飛んでくるわよ!」 「物理攻撃も魔法も、座標がズレて届かない……」
二人が焦りの色を見せる。 だが、俺は冷静だった。 空間がねじれているなら、そのねじれを「正せば」いい。
「アリア、もう一度斬り込め」 「はぁ!? また自分を斬るハメになるわよ!」 「大丈夫だ。今度は俺が、その『道』を作る」
俺の言葉に、アリアは一瞬躊躇したが、すぐに不敵に笑って覚悟を決めた。 「信じるわよ、リーダー!」
アリアが再び疾走する。 ゴーレムは反応し、空間を歪めて迎撃態勢に入る。アリアの進行方向の空間がぐにゃりと曲がり、彼女を壁に激突させようとする。
――させない。
「そこだ。『空間固定』・座標強制」
俺は右手を突き出し、ゴーレムとアリアの間の空間を鷲掴みにするイメージで魔力を放った。 ねじれようとする空間の座標に、俺の魔力で楔を打ち込む。 曲がった道を、無理やり真っ直ぐな廊下として『固定』する。
バヂヂヂッ! 空間が軋む音が響き、ゴーレムの周囲の歪みが強制的に解除された。
「道が見えたっ!」
アリアには、それが一本の真っ直ぐなラインとして見えたはずだ。 彼女は迷わず踏み込み、渾身の突きを放つ。
「貫けぇぇぇッ!」
今度は、剣先がどこへも飛ばされることなく、ゴーレムの胸にあるコアへと吸い込まれた。 ドォォォン!! 炎の魔力が内部で炸裂し、歪な巨体が内側から粉々に砕け散る。
氷の破片がキラキラと舞う中、アリアが着地し、ドヤ顔で振り返った。 「見た!? 今の!」
「ああ、ナイスだ」 俺は安堵の息をつく。 だが、倒したゴーレムの残骸から、何かがカランと落ちた音がした。
「……鍵?」 ミリスがそれを拾い上げる。 透き通った氷で作られた、複雑な紋様が刻まれたプレートだ。
その瞬間、俺の頭の中に直接、声が響いた。
『――血脈を証明せよ。次なる扉は、汝の記憶の中にあり』
俺はハッとして、洞窟の奥を見た。 そこには、今まで壁だと思っていた場所に、巨大な扉がうっすらと浮かび上がっていた。 俺にしか見えていなかった「順路」の終着点。
「行こう。あの中に、俺の両親の……始祖たちの真実があるはずだ」
俺たちは頷き合い、最奥のエリアへと足を踏み入れた。




