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【選択式】生まれる前に、逃げなさい  作者: みき


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第9話 見ていない顔

「見たくない。いまは、見たくない」


 声が震えた。ユノは否定せず、小さな仕切りを診察台へ立てた。右手が見えなくなって、ナギはようやく息を吐いた。

 仕切りの向こうで、金属が触れ合う音がした。ユノは触る場所を一つずつ告げ、それから手を動かした。ナギは診察台の角を見つめ、音が止まるのを待った。


「覚えてないのは、病気だからじゃないんだね」

「再導入時に、エピソード記憶が初期化されています」

「わたしは、やっていいって言った?」


 工具の音が止まった。


「候補体本人への同意確認は、手順に含まれていません」


 ナギはうなずかなかった。大事なことを、うなずいて認めてしまいそうだった。

 壁の棚に、布の端が挟まっていた。空調の風で少しずつずれ、下にある物が見えた。

 顔だった。

 目を閉じた、ナギと同じ顔。髪はなく、首から下もない。横に置かれた札には、『表情外装・予備』と印刷されていた。

 ナギは左手で自分の頬に触れた。指の温かさも、頬の柔らかさもある。それでも、棚の顔と自分が違う理由を、誰かに説明できる気がしなかった。


「あれに替えたら、わたしはどうなるの」


 ユノが顔を上げ、ナギの視線を追った。


「外装の交換だけでは、記憶領域は変わりません」

「じゃあ、どこを替えたら、わたしじゃなくなる?」


 ユノはすぐには答えなかった。


「その境界について、統一された説明は登録されていません」


 ナギは頬から手を離した。分からないことが残っていると聞いて、少しだけ楽になった。全部、誰かが決めた通りなのだと思うのが怖かった。

 仕切りの向こうで、右の指が伸びた。ユノは何を直したか説明し、閉じ終えてから仕切りを外した。手首には、よく見なければ分からない線が一本残っていた。

 ナギは両手を合わせた。どちらも同じ手に見える。


「これは、いつから使ってるの」

「この器体の初回起動は九十三日前です。手首の交換履歴はありません」


 九十三日前。覚えていない時間が、数字になった。

 棚の顔には、何日もなかった。自分には、靴をすり減らした時間がある。その違いを持っていてもいいのか、ナギはまだ分からなかった。


 診察台の脇に、薄い記録用紙が落ちていた。ユノが拾おうとするより先に、ナギはそこにある自分の名前を見た。

 昨日の日付の処置記録だった。


『消去への抵抗あり。家族体験映像の閲覧を確認。再導入後の個人記憶照合を禁止』


 欄外には、手書きで『病室裏板の傷を除去』とあった。実施の欄は空白だった。

 昨日も、自分は嫌だと言ったのだ。言ったあとで忘れさせられ、いままた、知らないことを聞かされている。

 ナギは記録用紙を握った。


「これも、捨てるの?」


 ユノは紙を見た。胸の光が何度か明滅する。


「清掃機へ渡す指示です」


 奥の清掃口が開き、八号が入ってきた。ユノが紙を受け取ろうとしたので、ナギは首を振った。


「これは、わたしが渡す」


 八号の容器へ紙を載せると、『所有者確認待ち』と表示された。ナギはその言葉を見て、紙をもう一度取った。


「持っていく。捨てないでいい」


 表示が『返却済』に変わった。

 ユノは何も言わず、八号の後ろにある小さな搬送扉を開けた。外の大きな機械に向かって、『動作確認を継続します』と告げる。

 ナギは診察台から降りた。手首の痛みは薄くなっていたが、消えてはいなかった。


「見なかったら、知らなかったことにできると思った」


 独り言のつもりだった。ユノは答えた。


「見る時期は、ご自分で決めてかまいません」


 ナギは一度だけうなずき、八号と狭い扉をくぐった。

【移動】

・八号と搬送通路を進む。→第10話へ移動

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