第7話 点検の時間
ユノの前で、ナギは足を止めた。
引き返そうにも、背後から重い足音が近づいている。八号が通路の端へ寄り、細い腕を畳んだ。隠れる場所は、壁に並ぶ配管の影くらいしかなかった。
「こちらです。走らないでください」
ユノが隣の扉を開けた。中には診察台が一つあり、布のかかった棚が並んでいた。
ナギは動かなかった。
「そこへ入ったら、覚えていられる?」
ユノの目の光が揺れた。
「現時点では、記憶領域への処置は指示されていません」
「あとで指示されたら、するんだ」
ユノは答えなかった。大きな機械が角を曲がり、ナギの背に白い光を当てた。
「未登録候補体、点検区画へ移送します」
ナギは走ろうとした。機械の腕が伸び、右の手首をつかんだ。輪のような器具が閉じ、腕が引かれる。痛い、と声が出たのは、体が動いてからだった。
ユノが二人の間へ入った。
「移送経路は確保されています。強制把持を継続する必要はありません」
「候補体の離脱を検出」
「痛覚反応の上昇を検出しました。器体損傷を防ぐため、看護支援機が移送を引き継ぎます」
何を言っているのか分からない。けれど、ユノがもう片方の手を差し出したので、ナギはそれをつかんだ。
大きな機械の腕が開いた。手首から先が、しびれたように重かった。
診察室へ入ると、ユノは扉を閉めた。外の機械は立ち去らず、曇りガラスの向こうに大きな影を残している。
「わたし、悪いことした?」
「許可されていない区画への移動がありました」
「それで、あんなふうにつかまれるの」
ユノはナギを診察台へ座らせた。靴の底が台の脚に当たり、鈍い音がした。
「痛かったのですね」
言われてから、涙が出た。痛いことを認められると、こらえていたものまでほどけた。
ユノが布を差し出した。ナギは左手で受け取り、顔を押さえた。右手は膝に置いたまま、指が二本だけ曲がっていた。伸ばそうとしても、思った位置まで戻らない。
「お母さんが、こうしてって言ったの?」
「綾瀬澪さまは、この移送を指示していません」
「じゃあ、誰が」
「施設長の牧瀬征一です」
ユノは引き出しを開けた。聴診器や包帯の代わりに、形の違う細い工具が並んでいた。
ナギは涙を拭く手を止めた。
「病院の道具じゃない」
「手首の駆動部に異常があります。位置を戻す必要があります」
聞き慣れない言葉ではなかった。ロボットの腕なら、その言葉を使うだろう。ナギは右手を胸へ抱えようとし、動かない指が病衣に引っかかるのを見た。
ユノは工具を置いたまま、ナギが自分を見るのを待った。
「これから右手首の外装を開きます。感覚を弱めることはできますが、完全には消せません。見ないこともできます」
「わたし、人間じゃないの?」
ユノの目が一度消えた。再びついたとき、返事までに長い間があった。
「NG-04は、対面型発達予測モデルです」
名前の代わりに番号を言われた。ナギは、それが答えだと分かった。
窓の景色、止まった時計、知らない約束。別々に怖かったものが、一つの形に集まっていく。その真ん中に、自分がいた。
扉の向こうの機械が、点検を促す音を鳴らした。ユノは、もう一度だけ尋ねた。
「いまから行う処置を、見ますか」
ナギは膝の上の右手を見た。さっきまで、何も疑わずに使っていた手だった。
【選択】
・自分の手首の中を、最後まで見る。→第8話へ移動
・顔を背け、見ずに処置を受ける。→第9話へ移動




