第5話 父親の席
ナギは生活記録室へ入り、扉を引いた。室内側のつまみを回すと、短い金属音がした。ここには鍵があった。子どものいる居間より、子どもを記録する部屋のほうが、簡単に閉じられるらしい。
窓のない部屋に、低い棚が三列並んでいた。色鉛筆、紙の束、背表紙に番号のついたファイル。上の棚には、同じ家族の絵が額に入れられていた。
女の人と、男の人と、真ん中にいる女の子。三人の頭の上に、大きな黄色い丸が描かれている。
太陽だろうと思ったが、よく見ると中に『でんき』と書いてあった。
絵の下に、日付とナギの名前があった。九日前だった。
次の絵では、父親だけが違っている。眼鏡をかけた人、ひげのある人、髪の短い人。女の人は、どの絵でも右の耳を髪で隠していた。ナギはその横顔を知っている気がした。
四枚目の絵では、父親の手だけが黒く塗りつぶされていた。
「何をしたの」
自分の絵に聞いても、答えは出ない。ナギは額の横のファイルを開いた。
『父親役変更に対する適応』という見出しがある。男の人たちは実際の父親ではなく、職員が交代で担当した役だった。母親役は固定。理由の欄には、『原資料提供者本人の反応を優先』とあった。
原資料という言葉が、紙の上で冷たく見えた。
黒い手の絵には、観察メモが添えられていた。
『父親役が母親役の発言を遮った際、候補体が皿を落とす。故意か不明。母親役の退室後、泣き声を認める』
紙をめくると、割れた皿の写真があった。魚の描かれた、小さな皿だった。
ナギは自分の両手を見た。どちらにも傷はない。あの居間の皿は、同じ柄の別の物なのだろう。割れても、泣いても、翌日には元の形に戻っている。そうやって、何度も同じ食卓に座らされたのかもしれない。
扉の向こうで、機械の足音が止まった。
「NG-04。点検の時間です」
ナギはファイルを閉じかけた。そのとき、最後のポケットから、折られた便箋が落ちた。
印刷ではなく、人の字だった。
『澪へ。
彼は、自分に似ていると言いました。あなたが笑ったので、うれしかったのだと思います。
あの子が何を覚えているか、先に私へ教えてください。
律子』
女の人の名前は、澪というのかもしれない。律子は誰なのだろう。ナギは手紙を光に透かした。裏側には、青いインクで短い返事があった。
『似ている、と言われたのは私です。
あの子の父親は、あなたの夫です。』
ナギは息を止めた。
大人たちの関係は分からない。それでも、この返事を書いた人が、書き終えたあとに紙を何度も折り直したことは分かった。折り目が重なり、端が白く毛羽立っている。
扉のつまみが動いた。鍵は外側から開けられるらしい。
ナギは手紙を元のポケットへ戻した。全部持っていこうとして、厚いファイルが胸に当たった。こんな物を抱えていては走れない。代わりに、黒い手の絵を額から抜いた。
絵は裏側にも続いていた。食卓の下に、小さな女の子と、丸い清掃ロボットが描かれている。女の子の手には、パンの端があった。
ナギは絵を折らずに、病衣の腹のところへ差し込んだ。
奥の非常扉を押すと、作業用の細い廊下へ出た。青い灯りの下で、八号が待っていた。ナギはその背を押し、扉を閉めた。
向こうで重い足音が部屋に入る。
「ねえ、わたし、前にも泣いた?」
八号は答えず、廊下の床を照らした。光の先に、子どもの靴の跡が一つ残っている。いま履いている靴と、同じ模様だった。
ナギはその跡を踏まないように歩いた。
曲がり角を越えたところで、白い服が見えた。ユノが一人、通路をふさいで立っていた。
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