第3話 正しい朝
ナギは扉の隙間から体を滑らせた。
廊下は病室より寒かった。床には青い線と黄色い線が並び、それぞれ別の角へ曲がっている。青い線の上を、ユノが進んでいた。足を動かしているのに、靴音がほとんどしない。
角の手前でユノが止まった。壁の通話機に顔を向け、少し低い声で話し始める。
「NG-04、再導入完了。呼称、言語、基礎運動に問題ありません。ただし、生活動作に残存反応があります」
通話機の向こうで、椅子がきしんだ。
「またパンか」
「はい。周縁部を細くちぎる動作です」
「そこは次で消せ。面談の評価に響く」
ナギは口元を押さえた。食べ方を見られていた。そのことより、『次』があると言ったのが怖かった。
ユノは続けて質問した。
「綾瀬さまの面談予約は、有効ですか。医学情報に、参照制限がかかっています」
「おまえが判断することじゃない。母親は来る。その説明でいい」
「本人から、出生保留について質問がありました」
「いつもの説明をしろ」
通話が終わった。ユノはしばらく動かなかった。壁の非常灯が赤から白に戻り、廊下のどこかで送風機が回り始める。
ナギは後ずさった。足の裏が床をこすり、思ったより大きな音が出た。
ユノが振り返った。
「ナギさん。お部屋でお待ちいただくようにお願いしました」
逃げようと思ったが、足が動かなかった。逃げる理由を言えない子は、もっと叱られる気がした。
「お母さんの名前、綾瀬っていうの?」
ユノはすぐには答えなかった。その沈黙で、聞いてはいけないところを聞いたのだと分かった。
「私からご説明できる内容には制限があります」
「わたしのことなのに?」
「あなたの不安を大きくしないためです」
ユノが膝を折った。ナギと目の高さがそろう。青い目はきれいだった。きれいすぎて、その向こうに何があるのか分からない。
「手を出してください。床が冷えていましたね」
ナギは片手を差し出した。ユノの指は、さっきより温かかった。手首を軽く支え、親指の先をなぞる。何かを測られていると分かっても、温かさにはほっとした。
「病室の窓、外じゃなかった」
「外の景色をお見せする設備です。日照や天候を一定に保てます」
「本物の外は、どこにあるの」
ユノの胸で赤い光がついた。廊下の先から男の声が響く。
「西棟の通路を確認しろ。牧瀬主任の認証で、扉が開けられている」
ユノは顔を上げた。手の力が抜け、ナギの指が離れた。
「部屋に戻ってください。歩いて戻れますね」
うなずいたら、戻らなければいけなくなる気がした。ナギは答えずに立っていたが、ユノは了承されたものとして立ち上がった。
その背中に、ナギは尋ねた。
「パンをちぎると、お母さんはわたしを嫌いになる?」
ユノの足が止まった。
「その質問に答えるための情報は、ありません」
初めて、分からないという答えが返ってきた。ナギは、その答えだけを少し信じた。
ユノが角を曲がるまで、ナギはその場を動かなかった。やがて、別の方向から車輪の音が近づいてきた。胸ほどの高さの清掃ロボットが、傾いたブラシを引きずっている。前面には『8』と表示されていた。
ロボットは足元に止まり、浅い容器を持ち上げた。中には、細い金属の輪が入っている。
「それ、さっき病室にあった」
『所有者確認待ち』
表示を読んで、ナギは首をかしげた。自分の物かどうかは分からない。けれど、捨てられるために何度も戻ってきた物には見えなかった。
「預かっておく。違ったら返すね」
輪を取ると、『返却済』と表示が変わった。
八号は廊下の壁へ寄り、案内板の下を掃除し始めた。三人が手をつなぐ絵の下に、『家族体験区画』と書かれている。
ナギは病室へ戻る青い線を見た。それから、誰も通っていない黄色い線を見た。
母親がどんな人か、ユノは教えられないと言った。ならば、人と家族になる場所へ行けば、何か残っているかもしれない。
ポケットに輪を入れ、ナギは黄色い線を踏んだ。
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