第2話 ベッドの裏
床に膝をつき、ナギはベッドの下をのぞいた。
奥まで掃除が行き届いている。ほこりも髪の毛もなく、床には細いブラシが通った跡だけが残っていた。ナギは片手をついて体を沈め、裏板に刻まれた傷へ顔を近づけた。
母親に会ってはいけない。
文字は一度で読めた。『母』の最後の線を長く引く癖がある。自分でもそう書く、と考えてから、どこで字を書いた記憶なのか思い出せないことに気づいた。
さらに奥に、短い二行があった。
白い時計は止まっている。
八号は、捨てない。
ベッドの端から廊下を振り返る。ユノは戻ってこない。ナギは起き上がり、枕元に置かれた問診用の鉛筆を取った。体調を記入する紙の隅に『母』と書く。裏板と同じように、最後の線が長く伸びた。
手が少し震えた。
自分が書いたのなら、前にもここで目を覚ましている。前にも母親の話を聞いて、会わないほうがいいと考えた。その理由を、いまの自分は何ひとつ知らない。
「どうして理由を書かないの」
小声で言ったあと、少し腹が立った。注意するだけでは、何も決められない。前の自分は、いまの自分がこんなに困ることを考えなかったのだろうか。
鉛筆を握ったまま、ナギは裏板の端をなぞった。『いけない』の先にも傷が続いていた。何かを書き足そうとして、何度も同じ場所を引っかいた跡だった。
時間がなかったのかもしれない。
壁の時計は十時十二分を指していた。文字盤の白い、丸い時計だ。耳を寄せても針の音がしない。窓の鳥と同じで、動いていると思って見ていただけだった。
足音が近づき、ナギは鉛筆を戻した。扉の前に現れたのはユノではなく、腰ほどの高さの清掃ロボットだった。角の欠けた灰色の箱に、細い腕が二本ついている。
前面の表示は『8』だった。
「八号?」
ロボットは止まった。使い古された洗剤のような匂いがする。上の浅い容器には、さっきの金属の輪が載っていた。
「ユノに捨てられたんじゃないの」
八号は容器を少し傾けた。輪が端まで転がり、そこで止まる。ナギは差し出されたのだと思って、指を伸ばした。
輪の汚れは、黒い塗装が削れた跡だった。尖った接合部に白い粉が詰まっている。裏板を引っかいたのは、この輪かもしれない。
八号の表示が切り替わった。
『所有者確認待ち』
「わたしの物なの?」
答えはなかった。ナギは輪を握り直した。軽く、少し冷たい。
「じゃあ、返してくれてありがとう。これは捨てないで」
八号の表示に『返却済』と出た。
ナギは病衣のポケットへ輪を入れた。胸のあたりがわずかに温かくなった。自分の物が一つできただけなのに、ここにいる理由が少し増えたような気がした。
ユノの声が、廊下のスピーカーから流れた。
「東棟の皆さま。電源点検のため、職員の案内に従ってお過ごしください。お子さまは、登録された保護者から離れないでください」
放送の最後に、別の声が重なった。低い男の声だった。
「候補体は部屋から出すな。六時まで、通常の手順を維持しろ」
すぐに音が切れた。
ナギは八号を見た。八号は何も聞かなかったように、床のしみをこすっていた。しみは、ナギが膝をついた場所にできた、小さな手の跡だった。
きれいになれば、ここにいたことも分からなくなる。
「そこは、あとでいいよ」
ナギが言うと、八号のブラシが止まった。少しの間を置いて、ロボットは廊下へ向きを変えた。
その先、扉の向かいに案内板が見えた。食堂、面談室、家族体験区画。『家族』という文字の横に、三人が手をつないだ絵がある。真ん中の子どもだけ、顔の部分がすり減っていた。
ナギは空の食事台を振り返った。戻ればユノがいる。パンの食べ方を注意され、知らない約束を守ることになる。
母親に会ってはいけない、と前の自分は書いた。けれど、ここで待っていれば、明日その母親が来る。
ナギは八号のあとを追った。
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