第1話 保留
本作は選択式の物語です。第1話から読み、各話末尾に書かれた移動先へ進んでください。番号順にすべて読む必要はありません。
目が覚めたとき、誰かが爪を切っていた。
左手を持ち上げられている。白い袖から出た指は薄い手袋に包まれ、爪切りの刃が閉じるたび、切れ端が小さな皿へ落ちた。ナギはそれをぼんやり眺めてから、自分の名前を知っていることに気づいた。
名前はナギ。それ以外は、遠くの駅で聞く放送のように、意味をつかむ前に消えてしまう。
「起きてしまいましたか。あと二本ですから、そのままで」
女の人に見えたものが顔を上げた。口の両端に細い継ぎ目があり、首の内側で青い光が動いている。胸には『看護支援機 UNO-4』という札がついていた。
ロボットだと分かっても、不思議には思わなかった。そういうものが存在することは知っている。けれど、このロボットと以前にも会ったのかは分からなかった。
「ここ、どこですか」
「白庭発達医療研究所の、東棟です。私はユノ。あなたのお世話を担当しています」
「病院なの」
「病院の設備もあります。頭痛や吐き気はありませんか」
ナギは首を振った。何か答えるたび、ユノの目の奥で小さな点が明滅する。答えを聞いているというより、どこかへ送っているようだった。
爪切りが終わると、手首が布団に戻された。そこに半透明の識別帯が巻かれていた。
呼称:ナギ
推定発達年齢:十四歳
出生:保留
最後の一行だけ、色が違う。
「保留って、どういう意味?」
ユノは皿の中身を、音を立てないように袋へ移した。ナギの手を離したあとの指が、何かをつかんだ形のまま、少しだけ止まっている。
「明日、お母さまがいらっしゃいます。あなたをお産みになるか、最後のお話し合いをするために」
「わたし、もういるよ」
「はい。ですから、身だしなみを整えましょう」
返事は早かった。質問の意味が届かなかったような早さだった。
ナギは窓へ目を向けた。薄いカーテンの向こうに、葉の茂った木がある。風が吹くと枝が左へ傾き、下から鳥が一羽飛び上がった。ひとつ、ふたつと数えているうちに、枝が元の位置に戻る。
ユノが食事の台を引き寄せたころ、同じ枝が、同じ角度で傾いた。
「お母さんの名前は?」
「面談のとき、ご本人からお聞きください」
「写真はないの。何も覚えてないんだけど、わたし、事故に遭った?」
台には白いパンと、薄い色のスープが載っていた。パンを見た途端、おなかがすいた気がした。気がした、と思ったことが気になった。すいているなら、すいているはずなのに。
ユノは枕元の画面に触れた。
「再導入後には混乱が見られます。焦らず、よい経験を増やしていきましょう」
「再導入?」
「お食事のあとは、顔を洗います」
ナギはパンをちぎった。端から細くちぎって、小さく丸めてしまう。なぜそんな食べ方をするのか、自分でも分からなかった。
ユノの手が伸び、丸めたパンをそっとほどいた。
「その食べ方は、やめるお約束でした」
ナギは指を引いた。覚えていない約束を破ったことが、なぜかひどく申し訳なかった。
謝ろうとしたとき、廊下で車輪のきしむ音がした。ユノが顔を向ける。扉の下の隙間から、灰色のブラシが一本だけ入り、敷居をなでて引っ込んだ。
「清掃八号。いまは使用中です」
返事の代わりに、固いものが床を滑った。小さな金属の輪だった。カーテンを吊るす輪に似ている。
ナギが拾おうと身をかがめると、ユノは先にそれをつまみ上げた。輪の片側に黒い汚れがついていたが、すぐに白い手の中へ隠れた。
「落とし物?」
「廃棄物です。触らないでください」
そのとき、天井の明かりが一度消えた。
窓の鳥も木もなくなり、向こう側は真っ黒になった。暗闇の中で、ユノの目だけが青い。ナギは声を出せず、まだ口の中にあったパンを、ゆっくり飲み込んだ。
数秒後、非常灯がついた。廊下で警告音が鳴り始め、ユノの胸の札が赤く点滅した。
「病室でお待ちください。移動は許可されていません」
ユノは扉を開けた。向こうには、誰もいない長い廊下が続いていた。
閉まるはずの扉は途中で止まり、細い隙間が残った。ナギは布団を押しのけて床へ降りる。裸足に床の冷たさが伝わったことが、妙にうれしかった。
ベッドに手をついたとき、指先が裏側の傷に触れた。浅い傷が、何本も続いている。文字のようだった。
廊下の奥でユノが誰かに話している。人間の返事は聞こえない。
ナギは、自分の手首と、開いたままの扉を見比べた。
【選択】
・ベッドの裏にある傷を確かめる。→第2話へ移動
・廊下へ出て、ユノの話している相手を確かめる。→第3話へ移動




