第29話 同じ家の別の部屋
澪と暮らすことに決めてから、鍵を渡されるまでに、さらに二週間かかった。
部屋の配線と保守設備を確かめ、困ったときの連絡先を決めた。ナギは、自分の部屋に内側から閉められる鍵が欲しいと言った。緊急時の開け方を三人で相談し、普段は勝手に入らないという約束を紙に書いた。
約束を紙にすると、破れなくなるわけではない。それでも、破られたときに、自分が嫌だったことを説明する場所ができた。
引っ越しの日、ナギは窓を開けた。
向かいの建物の壁と、その上に少しだけ空が見える。下の道を自転車が通り、誰かが店の戸を開ける音がした。風が強く、机の上の紙が飛びそうになった。
ナギは青いボタンのついた小袋を、重しにした。
「ここでいい?」
澪が廊下から聞いた。ナギは振り返った。
「自分で選んだ部屋だから。あとで変えたくなったら、そのとき言う」
澪はうなずいて、扉を半分閉めた。
暮らし始めてすぐ、二人は何度も困った。
ナギは澪が電話へ出ると、自分の処置について話しているのではないかと思った。澪はナギが黙っていると、傷つけたのではないかと尋ねすぎた。尋ねられるほど、ナギは大丈夫な顔をしようとしてしまった。
支援担当者に間へ入ってもらい、質問をやめてほしいときの合図を決めた。
研究所で消されたことを、家族になったからという理由で、話題にしなくなることはなかった。
ある夕方、澪が帰宅するのが遅れた。
連絡は来ていた。監査の聞き取りが長引いているという。ナギは読んだあとも、玄関の前から動けなかった。
鍵の音がしたとき、怒っているのか泣きたいのか、自分でも分からなかった。
「遅れるって、先に分かってた?」
澪は鞄を下ろした。
「少し前には分かっていた。連絡をあとにした。ごめんなさい」
「待っている場所で、何も決められないのが嫌なの。連絡が来ても、途中で変わるかもしれないって思う」
澪は言い訳をせずに聞いた。その夜、連絡の仕方を二人で決め直した。簡単に治ることではなかったが、記憶を消す話にはならなかった。
保護先にいたころから、律子からは、月に一度、調査と保全の経過が届いていた。夫とは別に暮らし、研究所での自分の承認について説明を続けているという。
ナギは一度だけ面会し、その次は断った。律子は理由を求めなかった。
晴たちとは、支援住宅の庭で会った。晴は折り紙の家を作れるようになっていたが、最初のつぶれた家も捨てていなかった。ミナの髪留めは、その中に置いたままだった。
ハチは共同の保守室で働き、ときどきナギたちの部屋へ来た。ほかの子の物まで持っているので、ナギだけの物にはならなかった。
ユノも、保護先での補助を続けていた。今度の運用規程には、本人が拒否したときの手順がある。ナギはその草案を読んで、『本人』に自分たちも含まれることを確認した。
新しい家で迎えた、最初の週末。澪が机に向かって泣いていた。
ナギが扉の前で止まると、澪は手元の封筒を伏せた。研究所で開示したものと同じ、茶色い封筒だった。
「今日は、あの子の予定日だった」
澪はそう言った。
ナギは部屋へ入っていいか尋ね、隣の椅子に座った。どう慰めればよいか、いくつも言葉が浮かんだ。けれど、そのどれも言わなかった。
「わたしに、どうしてほしい?」
澪は少し考えた。
「お湯を一杯、持ってきてくれるとうれしい。あとは、いつも通りにしていてほしい」
ナギは台所へ行った。湯を沸かし、コップを二つ出す。澪が失った子の代わりになる仕事ではなかった。いま隣にいる人へ、水を渡すことだった。
戻ると、澪は封筒をしまっていた。
「ありがとう、ナギ」
ナギはコップを机へ置いた。
「明日の朝は、わたしが先に起きる。パン、焦がしたらごめんね」
「焦がしてから、一緒に考えよう」
ナギは笑った。約束通りにできるかは、まだ分からない。それでも、明日が来たら、同じ自分で失敗できる。
部屋へ戻る前、廊下で一度立ち止まった。
「おやすみ、澪さん」
まだ母とは呼ばなかった。呼ぶ日が来るかどうかも、決めなかった。
向こうの部屋から返事があり、ナギは自分の部屋の扉を閉めた。
【エンディングⅡ 同じ家の別の部屋】
【読み直す場合】
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