第28話 よい娘
朝になると、窓の向こうで洗濯物が揺れた。
ナギはカーテンを開け、机の上を整えた。白い机、青いカーテン、小さな本棚。机の隅にある写真には、新しい父と母と、ナギが並んでいる。
ここへ来た日の写真だった。二人は少し緊張していたけれど、ナギは上手に笑っている。
この家で過ごした日を数えると、三十一日になる。
「ナギ、ごはんよ」
下から呼ばれ、ナギは返事をした。急ぎすぎると階段で音がするので、手すりへ軽く触れて降りる。母は台所に立ち、父は食卓で端末を読んでいた。
食器は三人分あった。ナギの皿には、黄色い花が描かれている。
「よく眠れた?」
「うん。今日の予定は、午前中に本を読んで、午後に散歩でしょう」
母がうれしそうにうなずいた。
ナギはパンを取った。端から細くちぎりかけて、指を止める。なぜそんなふうに食べようと思ったのか、分からなかった。
父が顔を上げた。
「また、その癖が出ているな」
「ごめんなさい」
ナギはパンを皿へ戻した。謝ると、胸の中の落ち着かなさが薄くなる。父もすぐに画面へ戻ったので、悪いことは終わったのだと思った。
玄関の呼び鈴が鳴った。
配達員が、小さな箱を持っていた。差出人は外部の保全管理室。研究所を出るときに預けていた私物が確認されたという。
ナギは両親の前で箱を開けた。
金属の輪と、青いボタンと、折りたたまれた紙が入っていた。ボタンは処置室で回収された私物だと、別の小袋に記載がある。箱の隅には、古い管理札もあった。『清掃八号・所有者確認待ち』と印刷されていた。
「清掃機が預かっていたんだって。変わった物を持っていたのね」
母は悪気なく笑った。ナギも笑い返そうとしたが、うまくできなかった。
青いボタンを指でつまむと、急に、暗い天井を見たような気がした。思い出したわけではない。ただ、ボタンを離してはいけない感じがした。
紙を開くと、自分によく似た字があった。
『わたしは消されるのがいやです。』
ナギは最後まで読んだ。読み終えても、意味がつながらなかった。ここへ来る前に調整を受けたことは教えられている。つらかった経験を整理して、暮らしやすくなったのだと聞いた。
これは、その前の自分が書いた物なのだろう。
「どうして、いやだったのかな」
ナギが言うと、父は端末を置いた。
「怖い思いをして混乱していたんだろう。もう、そのときのことを考える必要はないよ。いまはここで、落ち着いて暮らせているんだから」
ナギはうなずこうとした。けれど、紙の文字が少しにじんで見えた。
自分がいま幸せかどうかを聞かれれば、幸せだと答えられる。温かい部屋があり、優しく話しかけてもらえる。写真を撮るときには、真ん中へ入れてもらえる。
それなのに、この紙を捨ててはいけないと思った。
「部屋に置いてもいい?」
母は少し困った顔をした。父が、登録時の説明書を端末に開く。
「過去の刺激に触れると、不安が戻ることがあるそうだ。今朝の癖も、その前兆かもしれない。保守の人へ相談しよう」
ナギは紙を両手で持った。嫌だと言おうとしたが、どう言えば二人を困らせないかが先に浮かんだ。
少し待ってほしい。あと一度だけ読みたい。いまは落ち着いているから大丈夫。
どの言葉も、口から出る前に、別の言葉へ直された。
「心配をかけて、ごめんなさい」
母がナギの肩に触れた。優しい手だった。
「謝らなくていいのよ。あなたのためにすることだから」
父の端末に、家庭内調整の画面が開いた。実施の確認音が鳴り、ナギの胸の落ち着かなさが、ゆっくり薄れていく。
紙を渡すことが、さっきより簡単になった。
午後には、三人で散歩へ出かけた。
ナギは道端の花を見つけ、母を呼んだ。母は隣へしゃがみ、名前を教えてくれた。父が少し離れたところから写真を撮る。
風が吹いて、電線にいた鳥が飛び立った。
ナギは笑った。その写真には、誰の困った顔も写らなかった。
【エンディングⅠ よい娘】
【読み直す場合】
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