第30話 自分の名前で
支援住宅の部屋には、小さな郵便受けがあった。
ナギは名札の紙を受け取り、机に向かった。文字は印刷してもいいと言われたが、自分で書くことにした。
凪。
一文字を書いて、しばらく眺めた。穏やかで、家庭を乱さない子にするためにつけた名前だと聞いている。その意味を好きになる必要はない。
ハチが返してくれた袋にも、昨日の自分の手紙にも、同じ音の名前があった。ここまで持ってきた時間のほうを、残したかった。
名札を差し込むと、少し右へ傾いた。何度か直し、最後には傾いたままにした。
澪が荷物を運ぶのを手伝いに来た。
持ち込む物は少なかった。青いボタンのついた小袋、金属の輪、何冊かの本、毎晩書いていた記録。自分の昨日を確かめる紙は、薄い箱一つ分になっていた。
澪はその箱を机へ置き、開けなかった。
「連絡は、どのくらいがいい?」
ナギは考えた。毎日来てほしい日も、何日も来ないでほしい日もあると思った。
「しばらくは週に一回、こっちから連絡する。急ぎのことがあったら、そっちからでもいい。返事が遅くても、すぐに部屋を見に来ないで」
澪は手帳へ書き留めた。
「会いたいと言ったあとで、やめてもいい?」
「いい。私のほうも、行けないときには理由を伝える」
ナギはうなずいた。一緒に暮らさないと決めたことで、澪のしたことが軽くなるわけではなかった。関係を全部捨てる必要もなかった。
その間に、こんなふうに決められることがある。
玄関まで見送ると、澪は一度振り返った。
「生きていてくれて、うれしい」
ナギは、その言葉に少し困った。うれしくもあったが、誰かをうれしくするために生き続けなければならない気持ちにもなった。
迷ってから、言った。
「うれしくできない日も、ここにいると思う」
澪はゆっくりうなずいた。
「その日も、連絡していい」
ナギは、約束として覚えることにした。
暮らしは、すぐには広がらなかった。
遠くへ行くには充電の計画が必要で、保守の予定がある週は自由に出かけられない。自分の体の扱いをめぐる手続きも続いていた。誰の許可が必要なのかを、担当者と一緒に確認する日が多かった。
ナギはそのたびに、自分も説明を聞く席へ入れてもらった。難しい言葉を聞き返すと時間がかかったが、聞かずにうなずくことは減っていった。
研究所の調査も終わっていなかった。征一は記録の一部について、必要な処置だったという説明を続けている。律子も澪も、自分の関わった範囲を何度も聞かれた。
ナギは説明に立ち会うことも、立ち会わないことも選んだ。全部を見届けなければ生きていてはいけないとは、思わないようにした。
晴は隣の棟にいた。週末には、一緒に折り紙をした。晴が教える番になると、少し口調が強くなる。そのたびに二人で笑い、間違えたところを開き直した。
ミナたちの名前は、保全記録の中に残った。戻せなかった人を、戻せることにして忘れる約束はしなかった。
ハチの保管庫には、持ち主の分からない物がまだあった。ナギは週に一度、番号を確かめる手伝いをした。誰も名乗らない髪留めや、何を描いたか分からない絵もある。
捨てるかどうかを、急いで決める必要はなかった。
春の朝、ナギは初めて、一人で路線バスに乗った。
ユノが出発前の状態を確かめ、戻る時間を聞いた。ナギは時刻表を見て答えた。予定が変わったら連絡することも、自分から言った。
バスの窓は本物だった。車が止まれば景色も止まり、曲がれば、見ていた店が見えなくなった。同じ道を戻っても、同じ人が歩いているとは限らない。
ナギは停留所の名前を一つずつ読んだ。
ポケットには、金属の輪が入っていた。何かを書くための先端は丸めてもらったが、黒い塗装の削れた跡はそのままだった。
研究所で自分が書いた、母親に会ってはいけないという言葉を思い出した。あのときの自分には、あの言葉が必要だった。いまの自分は、その続きを知っている。
小さな手帳を開き、今日の日付の下に書いた。
行き先は、海。
帰る場所は、ある。
書き終えてから、澪へ短い連絡を送った。海へ行ってくる、帰ったらどんなところだったか話す、と。
すぐに返事は来なかった。ナギは端末をしまった。
降りる停留所が近づき、自分の指でボタンを押した。次で降ります、と表示がつく。
誰かが選んでくれるのを、もう待たなくてよかった。
【エンディングⅢ 自分の名前で】
【読み直す場合】
・これからの住まいを選ぶ場面へ戻る。→第27話へ移動
・最初から別の道を読む。→第1話へ移動




