第22話 最後の持ち物
同意欄へ触れたあと、ナギは画面から指を離せなかった。
文字が切り替わり、確認済みの印がついた。自分で押したことだけは、誰にも取り上げてほしくなかった。けれど、その印があるから何をされてもいいという意味にはしたくなかった。
「途中で嫌になったら、言う」
征一はうなずいた。
「処置が始まるまでは、取り消せる」
始まったあとには、誰が嫌だと言うのだろう。ナギは聞かなかった。答えを聞けば、また動けなくなる気がした。
八人を保全管理へ移す文書に、征一が署名した。律子は外部監査へその写しを送り、受領の文字が出るまで画面を閉じなかった。ナギ個人の監査記録を失うことに異議を述べたが、征一は、本人が選んだことだと繰り返した。
選んだという言葉が、誰かを黙らせるためにも使われるのを、ナギは聞いた。
澪は処置室の前までついてきた。ナギが振り返ると、何か言いたそうに唇が動いた。
「止めるなら、いま言って」
ナギが言うと、澪はゆっくり首を振った。
「あなたを引き取ると嘘の約束はできない。でも、この処置には賛成しません。いまのあなたがいなくてもよいという説明には、同意しません」
ナギは少し笑おうとして、できなかった。
「次のわたしには、同じことをしないで」
澪の目から涙が落ちた。ナギは拭かなかった。そのために手を伸ばしたら、離れられなくなる気がした。
処置室には、ユノがいた。診察台の上に新しい服が置かれている。灰色のスカートと、白いシャツ。引取先の人が選んだ物だという。
ナギは病衣のポケットから、金属の輪、青いボタン、昨日の自分の手紙を出した。どれも、向こうでは不要だと言われるのだろう。
ハチが入口まで来て、容器を差し出した。
「これ、また預かって」
輪と紙を載せ、ボタンだけは手に残した。なぜそうしたか、うまく説明できなかった。全部置くと、まだ生きている自分まで空になる気がした。
表示に『所有者確認待ち』と出た。
「わたしだよ。あとで分からなくなっても、わたしの」
ハチは、その言葉を何かの命令として記録したようだった。小さな受信音が鳴り、容器が体の中へ引き込まれた。
ナギは診察台に横になった。ユノが接続の説明をした。今度は手首ではなく、生活記憶の調整が行われる。途中から、呼びかけに答えられなくなる。
「見ていてくれる?」
ナギが聞くと、ユノはベッドの横へ来た。
「処置が終わるまで、ここにいます」
「怖くなくなるんだって。でも、いまは怖い」
「はい」
ユノは、それを訂正しなかった。
ナギは天井を見た。病室の偽物の窓は、ここにはない。白い板の継ぎ目に、小さな汚れがあった。誰かが掃除しても残ったものだった。
始めてよいかと、ユノがもう一度聞いた。
ナギは青いボタンを握りしめた。外の部屋の窓と、電柱と、洗濯物を思い浮かべた。あの場所へ行きたいと思ったのは、自分だった。
「始めて」
最初に、廊下の車輪の音が遠くなった。
次に、ボタンを持っている理由が分からなくなった。握っていると安心するのに、何に安心しているのか、言葉にできなかった。
ナギはユノを見た。顔を覚えておこうと思った。青い目が二つあり、その間に、小さな継ぎ目がある。
それから、目を覚ましたら何をする予定だったのかを考えようとして、考えていたことを忘れた。
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