第16話 母と呼ぶ前に
澪は、ナギが入っても立ち上がらなかった。
相談室の椅子に浅く腰をかけ、両手を膝の間で組んでいた。右の耳に、小さな銀色の留め具が見える。髪を耳へかけようとして途中でやめる癖があり、その動きだけ、ナギは知っている気がした。
律子は入口に残った。晴とハチも、廊下で待っている。
「ナギです」
名乗ってから、初対面のように言ってしまったことに気づいた。澪は少しだけ顔をゆがめた。
「綾瀬澪です。私たちは、前にも会っています。あなたが覚えていないのは、あなたのせいではありません」
ナギは向かいの椅子に座った。食卓の皿はなかった。天井の隅にカメラがあったが、律子が入口のスイッチを切ると、赤い光が消えた。
「わたしを見て、あの子だって思う?」
澪はすぐに首を振らなかった。その間が、ナギには怖かった。
「最初に会ったときは、そう思いたかった。失ったあと、もっとそう思いたくなった。けれど、あなたの話を聞くたび、私が知らないところで生きている人だと感じた」
「じゃあ、わたしは何のためにいるの」
「私の資料を利用して、売るために作られた。そのことは変えられない。でも、これから何をするかまで、同じ人が決めていいとは思わない」
ナギは膝の上で両手を開いた。体の中を説明されたときより、作った理由を聞くほうがつらかった。理由があるなら、理由に合わない自分は、いなくていいと言われそうだった。
「わたしの中のこと、あなたが作ったの?」
「会話と学習の仕組みの一部を設計しました。困っている人へどう声をかけるか、相手に嫌われたときどう反応するか。調整の仕方も、私が書いた」
「自分が嫌なときは?」
澪の指が強く組まれた。
「そこを、十分に作らなかった。相手が使いやすいことを、先に考えた」
ナギは、謝りたくなってしまう自分を思った。目の前の人がつらそうだから、自分が質問をやめれば楽になる。そういう道を、体が先に探してしまう。
けれど、やめたくなかった。
「いまも、あなたを困らせないようにしたい。でも、聞く。わたしが嫌だって言ったら、今度はやめてくれる?」
「やめます。すぐに止められないことなら、できない理由を説明します」
澪は机の上へ、自分の職員証を置いた。原設計担当者と書かれている。ナギは触らずに見た。
「わたしを助けるために、何をするの」
「消去と調整の記録を、外部監査へ渡す。私が設計した部分も隠しません。あなたたちを、この研究所だけで扱えなくする」
「そのあと、わたしはどこへ行くの」
「まだ決まっていません。受け入れを頼んでいる支援施設はあるけれど、あなたの体を維持する部品も必要です。助けたから大丈夫、と言い切れるところまで用意できていない」
ナギは少し失望した。外へ出れば、すべて終わる話ではなかった。
それでも、分からないことが残っていると、今度は自分も相談に加われる気がした。
「一緒に住みたいって言ったら、嫌?」
澪はうつむいた。ナギは答えが出るまで待った。
「いま、母親になれると約束するのは、できません。あなたが欲しい返事だと分かっていても、言えない。でも、あなたがどこで暮らすことになっても、説明を求められたら逃げません。会いたいと言われたら、相談したい」
ナギはうなずこうとして、やめた。悲しかった。それを、分かったふりで隠したくなかった。
「それは、悲しい」
「うん」
「でも、嘘で約束するよりは、あとで考えられる」
澪はそこで初めて泣いた。ナギのほうへ手を伸ばすことはせず、自分の袖で目を押さえた。
入口の律子が、廊下の時計を見た。午前三時を過ぎていた。壁の時計と違って、秒針が動いている。
「中央の監査室へ行くには、回収区画の扉と、中央通路の封鎖を解除する必要がある。分かれたほうが早い」
澪は立ち上がり、ナギと目を合わせた。
「回収区画に残っている子たちを、連れていきます。あなたが一緒に来るなら、手伝ってほしい」
律子は管制室の鍵を手に取った。夫のいる区画へ向かう鍵だった。
ナギはどちらの鍵も見た。大人が何をするか、もう一度、自分の目で確かめたかった。
【選択】
・澪と回収区画へ戻り、残された子どもたちを迎えに行く。→第17話へ移動
・律子と管制室へ向かい、中央通路の封鎖を止める。→第18話へ移動




