第15話 消してください
再生室の机に、録音の場所を示した紙が置かれていた。澪の署名と、『途中でやめてもかまいません』という一文がある。
ナギは再生機の前へ座り、音を小さくしてから始めた。
最初に椅子を引く音がした。男の声が聞こえる。
「今日は中止にしましょう。落ち着いてから、もう一度」
「中止ではありません。私は同意を撤回しています。胎児の検査資料を、人格モデルの開発へ使っていいとは言っていません」
女の声は、怒っていた。怒りの下に、何度も同じ説明をした人の疲れがあった。
「あなたは開発者でしょう。技術の性質は分かっているはずだ」
「だから、本人に何も伝えずに、毎回記憶を消していると知って驚いたんです。私が聞いていた試験とは違います」
紙をめくる音がした。男は、説明資料のどこかを読んでいるらしい。
「これを感情と呼ぶかどうかは、学問的にも結論が出ていません」
「結論が出ていないなら、苦痛ではないとも決められないでしょう」
ナギは手を膝の上で組んだ。この録音の向こうにいる人たちは、ナギを見ながら、ナギに何があるかを話し合っていた。その間、当のナギは何をしていたのだろう。
録音の奥から、小さな声がした。
「もうパン、ちぎらないから」
自分の声だった。
ナギは再生機を止めた。しばらく、椅子に座ったまま床を見ていた。母親を困らせたのは食べ方だと思い、直せば帰ってきてもらえると思った自分がいた。
今朝も、同じことを考えそうになっていた。
もう一度、再生した。
「この子の記録を消してください。私の検査も、ここでやめます」
その言葉のあとに、長い空白があった。ナギは止めずに待った。
「今の発言は、同意撤回として扱ってください。あの子を罰してくれなんて、言っていません。私の資料を複製しないでほしいと言っています」
「記録の全面削除なら、モデルの継続運用はできません」
「それなら、私の資料だけを切り離す方法を検討してください。私への説明と、あの子への説明を、別にしてください」
男は答えなかった。扉が閉まる音のあとで、録音が終わった。
ナギは紙に書かれた続きの場所を開いた。これは後日、澪が残した音声だった。今夜の日付がついている。
「ナギさん。あなたの元になった検査を受けたとき、私は妊娠していました。その妊娠は、三十五日前に終わっています。十九週でした。なぜ心拍が止まったのかは、分かっていません」
声が途切れた。録音の向こうで、誰かが水を飲んだ。
「あなたは、あの子が戻ってきた姿ではありません。私も、そう思い込もうとした時期があります。でも、それをあなたに引き受けてもらうことはできない」
ナギは自分の手首の帯を見た。『出生:保留』。書類が訂正されなければ、失われた命まで、都合のいい予定の中に置かれる。
「あなたを消してほしいという意味ではなかった。それは本当です。でも、あのとき私は、自分のことを取り戻すので精いっぱいで、あなたが何を聞くかまで考えられなかった。言葉が怖かったことまで、なかったことにはしません」
その説明を聞いても、怖かった気持ちは消えなかった。けれど、誰かがその怖さを認めたことは、残った。
ナギは録音を閉じた。机の上の小さな通話ボタンが光っている。押すと、少しの間を置いて、録音と同じ声が返ってきた。
「綾瀬です」
「聞いた。最後まで」
向こうで息を吸う音がした。
「来てくれて、ありがとう」
「まだ、会いたいかは分からない。でも、聞きたいことはある」
「待っています。答えられないことがあったら、そのまま言います」
ナギはボタンから指を離した。思い出せない昨日の自分へ、訂正を伝える方法はない。いまの自分が、続きを聞くことはできる。
廊下へ出ると、律子が相談室の扉を指した。ナギはうなずき、ハチの横を通り過ぎた。
【移動】
・相談室にいる澪に会う。→第16話へ移動




