第14話 空欄の予定日
閲覧室の机には、茶色い封筒が置かれていた。
表に『ナギさんへ。私の妊娠と、資料の使用について』と書かれている。下に澪の署名があった。ナギは椅子に座り、封筒の端をゆっくり開いた。
ハチが扉のそばへ止まった。律子と晴は廊下で待っている。
最初の紙は、検査への同意書だった。日付は九十六日前。確認する項目が並び、使ってよい資料の範囲が示されていた。
その範囲に、人型モデルを作るという記載はなかった。
別の紙では、同意範囲が広げられていた。ナギにも分かるくらい、不自然な空白があった。本人の署名があるべき場所へ、『責任者確認済』という印が押されている。
ナギは次の紙を取った。
妊娠十九週二日。三十五日前の日付だった。
短い診療記録の中に、胎児の心拍が確認できなくなったことと、その後の処置が書かれていた。詳しい描写はなかった。それでも、何が起きたのかは分かった。
原因の欄には、『確定できず』とある。
ナギは紙を置いた。窓のない部屋で、送風機の音だけが聞こえた。
明日、産むか決めると言われた。けれど、その子はもう、生まれてこない。自分が歩いていることとは関係なく、三十五日前に、別の命が失われている。
そのことを、誰もナギに教えなかった。
紙の余白に、澪の手書きの説明があった。
『原因は分かっていません。研究への参加や、誰かの気持ちと結びつけることはできません。あなたがいたせいでもありません。これだけは、先に伝えさせてください。』
ナギは何度も読み返した。自分のせいだとは、まだ考えていなかった。これから考えてしまうかもしれないところへ、先に置かれた言葉だった。
最後の紙には、予定日が印刷されていた。横線で消されているのではなく、細い紙が上から貼られていた。
剥がせば読めるだろう。ナギは剥がさなかった。
封筒の底に、小さな写真が入っていた。灰色の濃淡だけで、何がどこにあるのか分からない。機械の自分によく似た女の子の写真を想像していたので、その曖昧さに戸惑った。
写真の裏には、『まだ名前を決めていない』と書いてあった。
ナギという名前は、その子の名前ではなかった。
手紙は、そのことにも触れていた。
『あなたの名前は、モデルを作った職員がつけました。穏やかで、家庭を乱さない子という意味を説明されました。私は、その説明が嫌でした。でも、あなたが自分をナギと名乗ったとき、何も言えませんでした。』
ナギは自分の名前を、声に出さずに呼んだ。嫌な意味からついた名前なら、捨てなければいけないのだろうか。
今朝、ユノに呼ばれた。ハチの袋にも書いてあった。昨日の自分も、その名前で手紙を残した。その全部まで、職員の物だとは思いたくなかった。
封筒へ紙を戻そうとして、一番後ろの書類に気づいた。澪の復職申請と、研究利用の停止請求だった。どちらにも、同じ責任者の印が押されている。
停止請求だけが保留になっていた。
失った人が何をやめたいかを決めても、ここでは、別の人が先へ進めてしまう。
ナギは扉を開けた。律子が立ち上がろうとしたので、首を振って止めた。
「読んだ。お母さんって呼ぶかは、まだ決められない」
「ええ」
「でも、話は聞く。わたしの話も、聞いてもらいたい」
律子は廊下の奥を指した。磨りガラスの向こうに、座っている人の影が見える。
ナギは封筒を胸に抱えた。澪へ返すためだった。誰にも知らせたくない部分まで、自分の正体の説明に使わせてしまったことが、重かった。
同時に、ナギには知る必要のあったことでもあった。
その二つを、どちらも落とさないように歩いた。
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