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【選択式】生まれる前に、逃げなさい  作者: みき


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第13話 妻の署名

 律子は、膝に巻いた布を押さえていた。黒いズボンの裾が裂け、床に少しだけ血が落ちている。ナギが近づくと、手のひらを見せて、それ以上来なくていいと示した。


「大丈夫。回収機の腕を避けたとき、階段にぶつけただけ。晴くん、そこの台車に座っていてくれる?」


 晴は言われた通りに座った。ナギは手すりを挟んで律子を見た。通話機で聞いたときより、疲れた声だった。


「牧瀬征一は私の夫です。綾瀬澪さんは、この研究所の対話モデルを設計していた研究員。二人には、結婚している私に隠して続けていた関係がありました」


 律子は、言葉を選ぶために何度か止まった。


「澪さんが妊娠した子の父親は、征一だった。検査資料を使って、あなたのモデルが作られた。澪さんは、その使用には同意していません」

「なのに、あなたも止めなかったの?」

「ええ。説明が足りないと書いて、研究を続ける承認にも署名した」


 律子は首から下げていた職員証を外し、階段に置いた。ナギに差し出すことはしなかった。


「夫の不正が明るみに出れば、自分が長い間、何も知らずにいたことまで知られる。それが嫌だった。あなたを見て、あの二人がしたことを考えた。あなた自身を見ていなかった」


 ナギは手首を押さえた。傷のないところが、まだ痛んでいた。


「わたしが痛いのは、知ってた?」


 律子はうなずいた。


「報告には目を通した。画面を閉じれば、痛みも終わったような気になっていた」


 晴が台車の車輪を足先で動かした。律子はそちらを見て、何か言おうとしてやめた。謝る言葉を聞かせることと、助けることを、いまは同じにしてはいけないと思っているようだった。

 ナギは階段に腰を下ろした。足が冷たくなっていた。自分を作るために何人もの大人が関わり、その全員が別の理由で、自分を後回しにした。


「あなたを信じたら、また消されるかもしれない」

「そう思っていい。私が外へ送ろうとしているのは、私の署名も残った記録です。自分のしたことを抜いた記録ではありません」


 律子は鞄から、小さな監査用の受領端末を出した。外部機関への連絡状況が表示されている。受付済みという短い文字の下に、担当者の返信があった。


『原本保全を優先してください。現場責任者および原設計担当者の立会い後、遠隔受領を開始します』


「あなたたちの体には、消された会話とは別に、操作の履歴が封印されて残っている。それを取り出すには、私と澪さんが必要なの。征一は六時にあなたを納品登録して、古い領域を回収するつもりです」


 ナギは、体のどこにあるか分からない記録を想像した。自分が思い出せないことを、金属の箱が知っている。少し悔しかった。


「そこに、わたしの昨日もある?」

「全部はない。誰が、いつ、何を消したかは分かる。でも、あなたがそのとき何を大切にしていたかまでは戻せない」


 ナギは、ポケットの輪とボタンを握った。それなら、ハチが持っていた物のほうが知っていることもある。


 ナギは廊下の時計を見た。午前二時を過ぎている。ユノは明日だと言ったのに、登録される六時は、もう四時間も先ではなかった。


「病室では、朝みたいだった。明日、お母さんが来るって」

「あの部屋は、起動した時刻に関係なく朝の説明から始まる。妊娠が終わったあとも、面談の説明文が使い回されていた」


 律子は目を伏せた。ナギが明日だと思って待っている間に、全部が済んでしまう仕組みだった。

 律子は二つの小さな鍵を出した。一つは診療記録の閲覧室、もう一つは面談記録の再生室につながる扉の鍵だった。


「澪さんは産科の相談室にいる。あなたに会う前に、妊娠と同意撤回の記録を開示したいと言っている。私が説明しても、都合よく話したと思われるからと」

「会いたくないって言ったら?」

「そのまま伝える。会うことを条件に、助けるわけではない」


 ナギは鍵を見た。母親に会えば終わると思っていた探索が、会う前から、別の形になっていた。

 どうして自分がいるのかは、少し分かった。ここから先は、会ったあとも自分でいられるかという話だった。

【選択】

・澪が開示した診療記録を読む。→第14話へ移動

・澪の同意撤回が録音された面談記録を聞く。→第15話へ移動


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