いざ、フロレシアへ。
翌朝、また夢を見た。
でも今回は何も覚えていなかった。
目が覚めた時、枕が少しだけ湿っていた。気のせいかもしれない。
「祭主!おきてる!?」
「……起きてる」
「よし!準備して!出発は一時間後よ!」
ドア越しに聞こえるセレスの声は、昨日と寸分違わない元気さだった。どこにその燃料があるのか聞いてみたい気もするが、聞いても「女王だから!」と返ってくるだけだろう。
私は身体を起こす。
背中がまだ痛む。
見ないようにしている。ずっと、見ないようにしている。
寝間着を着替えたところ、ちょうどフィレンが私のところへやってきた。
「少しよろしいですか、祭主様」
「その呼び方、まだ慣れないんだけど」
「慣れてもらわないと困ります。今日から公式にそう呼びますので」
フィレンは小さな冊子を差し出した。紙が黄ばんでいて、端がほつれている。
「これは?」
「先代の祭主様が残したものです。引き継ぎのつもりで書いたのかもしれませんが……ずっと引き取り手がなかったもので」
受け取って、少しページをめくってみる。
「……」
「どうしました?」
「なんも書いてないけど……」
「一番最後のページを開いてみてください。」
「なにこれ?」
そこには、"君に任せよう"と書いていた。
「君に……任せよう」
「それが初代祭主の最後の言葉だと思われます。」
「ちなみにその本はあげます。祭主の日記帳みたいなものですので、毎日でなくとも書いて下さいね。」
「1ページも書いてないけど?」
「前の持ち主がサボったんでしょうね。」
「そういうことなの?」
「まあ、そういうことにしておきましょうか。」
フィレンがばつが悪そうにする。
「では、出発までまだ時間があるのでごゆっくりしてください。」
扉が閉まる音がして、部屋に静けさが戻った。
私はもう一度、本を開いた。
黄ばんだ紙。 空白のページ。 最後の一文だけが、妙に鮮明に目に入る。
――君に任せよう。
たったそれだけ。
責任を押し付けられたようにも見えるし、信頼されているようにも見える。 そのどちらなのか、私にはまだ分からなかった。
窓の外では、街がもう目を覚まし始めている。 石畳を走る荷車の音。 遠くから聞こえる鐘。 パンを焼く匂い。
フロレシア。
元来、魔女と妖精は犬猿の仲だ。喧嘩や最悪、戦争に発展しないか心配だ。
私は冊子を閉じ、深く息を吐いた。
正直、行きたくはない。
だが、教団の仕事だ。 「祭主」という肩書きは、思っていたより逃げ道を許してくれないらしい。
私は椅子から立ち上がり、壁に掛けてあったルミナリア王国の紋章の刺繍が入った外套を羽織って、廊下にでる。廊下の窓から外を見ると、セレスとフィレンがいた。
またなにか言い争っている。どうせセレスがお菓子を持っていこうとしているのを止められたのだろう。
時計を見ると約束の時間まであと数分だった。少し考えすぎてしまったようだ。
外にでると、セレスの声が一番に聞こえた。
「なんでお菓子を持っていったらだめなの?!」
「どうせ魔女たちのことですから、どうせ『お菓子なんて低俗なもの食べてて妖精は貧相ね』って言われます!女王様の品位を下げさせるわけにはいきません!」
「それは嫌だけど、お菓子を食べられないのも嫌なの!」
「……子どもか」
思わず口から漏れた。
「子どもじゃないもん!」
セレスが即座に反応する。耳までぴくぴく動いていた。
「祭主!聞いてよ!フィレンがお菓子没収しようとするの!」
「外交ですから当然です」
フィレンはきっぱりと言い切った。
その腕には、既に紙袋が抱えられている。どう見ても押収済みだ。
「ちなみに何を持っていこうとしてたの?」
「蜂蜜クッキーと、木苺タルトと、砂糖漬けの花びら!」
「多いな」
「旅は甘味が命なの!」
「その理論は初めて聞きました」
フィレンが深いため息をつく。
私は二人を交互に見たあと、少しだけ考えた。
……正直、どうでもいい。
けれど、ここで片方に肩入れすると後が面倒そうだった。
「半分だけ持っていけば?」
「祭主!」
「祭主様……」
二人同時に違う意味の声を上げる。
「妥協案としては悪くないでしょ」
フィレンは少し考え込み、やがて渋々うなずいた。
「……では、半分だけです」
「やったぁ!」
セレスが飛び跳ねた。
その勢いで紙袋を奪い返し、中身を確認し始める。まるで宝箱でも開けるみたいだった。
「ほら、祭主も食べる?」
「朝から甘いものは重い」
「えぇ〜」
「出発前に虫歯になったらどうするの?」
「妖精は虫歯にならないもん!」
「ほんとに?」
「そうよ!そもそも、この世界で病気になるなんて滅多に無いんだから。」
「へーそうなんだ。」
「……で、フィレン。フロレシアまで行くための乗り物は?」
「ありませんよ?」
「は?」「え?」
セレスと同時に反応した。
「あるわけないじゃないですか。女王様の無駄な出費のせいで今、王国にはあまり財産が無いんですよ。」
「……じゃあ、歩きでいくわけ?」
「そうなりますね。」
「ここからフロレシアまでどのくらいか分かってる!?」
「歩いて二時間位ですかね。」
「二時間……!?」
「無理!」 セレスが即答した。
「女王様、普段から運動不足なんですから丁度いいでしょう」
「妖精に“歩く”って文化はそんなにないの! 飛ぶの!」
「じゃあ飛んで行けば?」
「途中でお腹空くもん!」
フィレンがまた深いため息をついた。 今日だけで何回目だろう。
「……まあ、二時間ならそこまで長くはないか」 私はそう言って外套の襟を整える。
本当は長い。 かなり長い。 でも、ここで「嫌だ」と言ったら、この二人がさらに騒ぎ出す未来しか見えなかった。
「祭主ってバケモノなの?」
「……」
「では行きましょうか」
フィレンが先頭に立つ。
王都の門を抜けると、景色はすぐに変わった。 石畳は土道へ変わり、背の高い草が風に揺れている。 遠くには深い森が見えた。
「あれがフロレシア方面?」 「ええ。森を抜けた先です」
森の入り口まで来ると、空気がひんやりと変わった。
木々の隙間から差し込む光が、地面にまだら模様を作っている。鳥の声が聞こえる。虫の声も聞こえる。どちらも、王都では聞かない種類の音だった。
「……静かだね」
「魔女の森ですから」とフィレンが低い声で言った。「妙な気配がしても、むやみに反応しないでください」
「妙な気配って、どんな?」
「それが分かれば苦労しません」
「祭主〜」セレスが私の袖をつかんだ。「なんか怖くなってきた」
「さっきまで飛んでいくとか言ってたじゃない」
「それはそれ! これはこれ!」
論理のかけらもない。けれど、私もあまり大きな声では言えない。
森の奥から、風とも声ともつかない音が聞こえた気がした。
気のせいかもしれない。
気のせいであってほしかった。
「……フィレン」
「はい」
「魔女って、具体的にどんな感じなの?」
「"具体的に"というのは?」
「友好的かどうか、って意味で」
フィレンは少し間を置いた。その間が、あまりよい答えを予感させなかった。
「……過去に三度、使節を送っています」
「うん」
「全員、帰ってきました」
「それは良かった」
「ただ、二人は無言で、一人は笑いが止まらない状態で」
「どういう状態?」
「三日後には戻りましたので、あまり深く考えないことにしました」
セレスが私の袖をさらにぎゅっと握った。
道は細くなり、頭上の枝が絡み合って、空が少しずつ見えなくなっていく。苔の匂いがした。それから、何か甘いような、焦げたような、言葉にしにくい匂いが混じった。
「魔女の工房が近いですね」とフィレンが言った。
「あの匂いが?」
「魔法薬を煮る匂いです。慣れると悪くはないですが」
「慣れたことあるの?」
「ありません」
じゃあ知らないじゃないか、と思ったけれど、黙っておいた。
しばらく歩くと、木々の向こうに光が見え始めた。開けた場所があるらしい。
「もうすぐです」
フィレンの声が、わずかに固くなった。
「セレス」と私は言った。
「な、なに?」
「女王らしくしてよ」
「……するわよ! もとからそのつもり!」
袖はまだ握られたままだった。
森を抜けた瞬間、目の前に広がった光景に、私は思わず足を止めた。
ルミナリアと瓜二つのような。でも、すこし妖艶な感じというか怪しい感じというか。
門に近づくと、門番らしき女が話しかけてきた。
「ルミナリアのやつか?」
「そうよ!フェイダに用があってきたの!」
「そうか、というか横のソイツはニンゲンか?」
「そうだよ。」
「珍しいな。ニンゲンが魔女の国に来るなんて何年ぶりだ?とりあえずついてこい。」
門番の女は、長い黒髪を指で弄びながら歩き出した。
その背中には、枝のようにねじれた杖が背負われている。杖の先には、小瓶がいくつも吊るされていて、歩くたびにからん、と乾いた音を立てた。
よく見ると手には大きな禍々しい形の斧があった。
「……なんか怖いね」 セレスが小声で言う。
「聞こえてるぞ、妖精」 門番が振り返りもせずに言った。
「ひっ」
セレスが私の後ろに隠れた。
「怖いって言っただけなのに!?」
「魔女は耳がいいんだよ」
「ずるい!」
理不尽な抗議だった。
門をくぐると、街の空気が一気に変わった。
建物はルミナリアと似ている。石造りで、道も整備されている。けれど、窓辺には見たこともない植物が吊るされ、軒先には骨や羽根の飾りが下がっていた。煙突から漂う煙は紫色だったり青色だったりして、どう考えても普通ではない。
通りを歩く魔女たちが、一斉にこちらを見る。
「……」 「……妖精だ」 「しかも王族紋じゃない?」 「うわ、ほんとだ」 「横の人間、顔死んでるな」
最後の感想は放っておいてほしい。
「なんかめちゃくちゃ見られてるんだけど!」 セレスがまた袖を引っ張る。
「セレスが目立つからでしょ」 「祭主も十分目立ってるわよ!」
それは否定できなかった。
魔女たちの視線は、主に私へ向いていた。
好奇心。警戒。値踏み。 色んな感情が混ざった目だった。
人間が珍しいというのは本当らしい。
「そこのアンタ。ニンゲンでしょ?」
通りの脇に立っていた魔女が、煙管をくゆらせながらこちらを見ていた。 年齢は分からない。どうせまた数百歳とかのパターンだろう。若く見えるのに、目だけが妙に古かった。
「……そうだけど」
「へえ」
紫色の瞳が細くなる。
「逃げなかったんだ」
「何から?」
「この国から」
その言い方に、少しだけ背筋が冷えた。
セレスが私の外套を引っ張る。 「さ、祭主。帰ろう?」 「今来たばっかりなんだけど」
「大丈夫だよ、妖精」 魔女はくすくす笑った。 「取って食ったりしないから」
「今の言い方だと、食べる可能性がゼロじゃないみたいに聞こえるんだけど」
「冗談だって」
絶対半分くらい本気だ。 そう思った瞬間、門番の女が舌打ちした。
「おい、ヨアン。道の真ん中で絡むな。客人だぞ」
「相変わらずケチなやつね。メルヴィルは。」
煙管の魔女は私をじっと見つめる。
「アンタ、“匂い”が変だし」
空気が止まった気がした。
フィレンの目が鋭く細まる。 セレスも黙った。
「……匂い?」
私はなるべく普通に聞き返した。
「普通はソイツの好きなものとかの匂いがするんだけどね。アンタだけはなんか匂いがごちゃごちゃで分かりにくいのよ。」
「ヨアン、ちゃちゃ入れるだけなら早く帰れ!早く帰らないと女王様に報告するぞ。」
門番はもっていた大きな斧を魔女の首もとにやる。
「はいはい、わかりましたよ。でも、ニンゲン。アンタは私のものにしたいわ。」
「ひぇ……」「ひぇ~……」
寒気がした。
「安心しろ、ニンゲン」 門番――メルヴィルが斧を肩に担ぎ直す。
「コイツはいつもこうだ。」
安心できなかった。
ヨアンは喉の奥で笑いながら、ふっと紫煙を吐く。 煙は蝶みたいな形になって空へ散った。
「ま、フェイダ様が先ね。あの人、アンタ見たら絶対喜ぶし」
その言葉を最後に、ヨアンは人混みへ溶けるように消えていった。
「……消えた?」 私は目を瞬かせる。
「魔術ですよ」 フィレンが即答する。 「追わないでくださいね。面倒なので」
「追うわけないでしょ」
むしろ全力で距離を取りたい。
メルヴィルは「行くぞ」とだけ言って再び歩き始めた。 私たちはその後ろを追う。
通りを進むほど、街の中心に近づいているのが分かった。
建物が大きくなる。 道端の灯りが青白く変わる。 空気に混じる薬品の匂いも濃くなっていく。
なんだか背中の傷も痛んでいく気がする。
「ここだ。」
「おお……」
「やっぱり大きいね。」
セレスの城の2倍はありそうなくらいおおきい。
「あとは城の中にいるやつらに聞け。」
「分かりました。」
「じゃあいこう。」
黒い塔の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
外より静かだ。 静かすぎる。
広間には人の気配がほとんどないのに、誰かに見られている感じだけがずっと消えなかった。
床には複雑な紋様が描かれている。 魔法陣――たぶん。 青白く淡く光っていて、見ていると少し目が痛くなった。
「……なんか踏んじゃいけない場所とかある?」 私は小声で聞く。
「全部踏んで大丈夫ですよ」 フィレンが即答する。
「逆に怖いんだけど」
セレスはきょろきょろと辺りを見回していた。 耳が落ち着きなく動いている。
「ねえ教主……壁、動いてない?」
「見ないほうがいいと思う」
実際、壁の影が微妙に揺れていた。 風ではない。 なんなら窓すらない。
すると、廊下の奥から何かが近づいてくる音がした。
かつ、かつ、かつ。
一定の足音。
「ひぃっ!誰?」
セレスは驚いて私にしがみついた。
「客人ってアンタたちのこと?」
奥から私と同じぐらいの身長の魔女が現れた。
「早く答えて!こっちは時間がないの!」
「そうだよ。」
「女王様はもう謁見の間で待ってるから早く来てちょうだい。」
「なんか粗相をおかしたらただじゃ済まさないからね!」
よく見ると、左手から刺々しい蔓が生えて?いる。そういう魔法なのかもしれない。
セレスはまだ私の腕にしがみついている。 さっきからずっと震えていた。
「セレス、苦しい」
「無理! 離したら絶対呪われる!」
「もう十分呪われそうな空間だけど」
フィレンだけは比較的冷静だった。 ただ、目線だけは常に周囲を警戒している。
「祭主。できるだけ刺激しないようにしてください」
「それ私に言う?」
「主に女王様へ言っています」
「なんでよ!」
全員に言っている気がした。
魔女の後について廊下を進む。
塔の内部は外から見た以上に広かった。 途中で何度も階段を上り、曲がり角を抜ける。
そのたびに、奇妙なものが視界に入る。
壁に埋まった時計。 逆さまに燃える蝋燭。 水の中を泳いでいる本。
「……見間違いじゃないよね?」
「魔術国家ですから」 フィレンがまた万能っぽい言葉で片付けた。
ところで魔法と魔術って何がちがうのだろうか。
すると前を歩いていた魔女が、不意にこちらを振り返った。
赤紫色の瞳が細くなる。
「ところでアンタ」
「……私?」
「そう。ニンゲン」
蔓の絡まった左手が、ゆっくりこちらを指す。
「なんでそんな匂いしてるの?」
またその話だ。
背中がずき、と痛む。
「匂いって何」 私は少し強めに聞き返した。
魔女は鼻を鳴らす。
「死にかけの星みたいな匂い」
「例えがもう最悪なんだけど」
「でも、生きてる」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「普通なら壊れてるのに」
空気が少し重くなる。
セレスが不安そうに私を見上げた。
フィレンは一歩だけ前へ出る。
「その辺りで」
声が低い。
魔女は「はいはい」と肩をすくめた。
「別に取って食おうってわけじゃないわよ。ヨアンじゃあるまいし」
安心材料にならなかった。
やがて、巨大な扉の前へ辿り着く。
今まで見たどの扉より大きい。
黒い木に銀色の模様が刻まれている。 模様は蔦にも、蛇にも見えた。
「ここが謁見の間」
魔女が扉へ手をかざす。
すると、模様が淡く光った。
重い音と共に扉がゆっくり開く。
その瞬間。
ぞわり、と背筋が粟立った。
広間の奥。
玉座のような椅子に、一人の女が座っている。
長い銀髪。 黒いドレス。 脚を組み、頬杖をつきながらこちらを見ていた。
「やっと来たか。」
セレスが飛び出す。
「会いたかったよ!お姉ちゃん!」
お姉ちゃん……?
「久しいな!セレスよ!」




