ノア
どれだけ経ったのだろう……この暗闇に閉じ込められてから何時間、いや、何日経ったのか?どんなに歩き回ってもなにも見つからない。ノイローゼになりそうだ。どれほど前か忘れたが、助けを呼んだ。喉がつぶれそうなぐらい叫んだ。でも、どれだけ叫んでも、返ってくるのは自分の声だけだった。
乾いた反響が闇の奥へ吸い込まれていくたび、胸の奥が少しずつ削れていく。
足元の感覚も曖昧だった。石なのか、土なのか、それとも何か別のものなのか。靴底を擦る音だけが、自分がまだ存在していることを教えてくれる。
「……誰か」
掠れた声は情けないほど弱かった。
喉は焼けるように痛み、空気は冷たいのに息だけが妙に熱い。眠った記憶もない。多分だけど、ここでは眠れないのだろう。だが意識は途切れない。疲労だけが積み重なり、頭の中で黒い泥のように淀んでいく。
どこから来たのかも思い出せなかった。
気づけばここにいた。何かの天罰なのかもしれない。
なんだか全てが虚しくなって踞っていると、なにか小さな光が見えた気がした。それがなにか分からなかったが、やっとこの地獄から解放される、と必死に光を追った。光に追い付いたとき、ひとつ気付いたことがある。小さな光だと思っていたものは水晶玉のようなものだった。その玉には大きな木に一人の少女が腰かけている様子が写し出されていた。水晶にそっと触れると暗闇が晴れ、城のようなところに移動し、落ちる感覚があった。それからはよく覚えてない。
そして、今、このよく分からないやつの話し相手をしている。
「ねぇねぇ、あなたはどこからきたの?」
「分からない」
「あなた、よく見たら羽がないけど何の種族なの?魔女みたいに角もないし」
「ニンゲンだよ。」
「ニ……ン……ゲ……ン?」
「知らないの?」
「なんかフィレンが持ってた本にそういうのが載ってたような気がする……?」
「名前はなんて言うの?」
「……」
思い出せなかった。どんだけ頭の隅から隅までひねりきっても出てこなかった。というかニンゲンだった頃の記憶すら思い出せなかった。
「ノア……」
「ノアっていうの?」
「そう」
とりあえず頭のなかに浮かんできた名前を言ってお茶を濁しておいた。
「ふーん……ノア、私はセレスよ。」
目の前の少女――セレスは、興味津々といった顔で私の顔を覗き込んでいた。
金色の長い髪。 年齢は自分とそう変わらないように見えるのに、妙に偉そうだ。
というか実際偉いらしい。
「で、なんでそんなボロボロなの?服も泥だらけだし」
「知らない」
「知らないって便利な言葉ね」
「本当に知らないんだよ」
セレスはむぅ、と唇を尖らせた。
その後ろで、銀髪の女性が静かにこちらを観察している。
あの人だけは違った。
セレスみたいな好奇心ではなく、 もっと冷たい、何かを測るような目。
「……ノア」
「なに」
「貴女、“門”を通りましたね?」
門。
その単語に、頭の奥が微かに痛んだ。
暗闇。 水晶。 落ちる感覚。
そこまで思い出して、また霧がかかったように記憶が消える。
「分からない」
「……そうですか」
彼女はそれ以上追及しなかった。
だが、目だけは少し険しくなる。
セレスはそんな空気を気にもせず、ぐいっと私の腕を引っ張った。
「とりあえずお風呂!」
「……は?」
「臭いから!」
「女王様」
「なによフィレン」
「もっと他に言い方があるでしょう」
「でも臭いのは事実じゃない」
私は自分の袖の匂いを嗅いだ。
「くさっ……」
「でしょう?」
セレスは満足げに頷く。
「あとご飯!腹減ってるでしょ?」
その言葉で、ようやく自分が空腹だったことを思い出した。
胃がきゅう、と痛む。
それを聞いたセレスが笑う。
「やっぱり!」
「女王様、拾った野良猫みたいに扱わないでください」
「えー。でもなんかそんな感じしない?」
「しません」
「する」
「しません」
二人のやり取りを見ながら、私はぼんやり思った。
……変な人たちだ。
なのに。
嫌じゃなかった。
あの暗闇にいた時よりずっと、 胸の奥が軽い。
城の廊下を歩きながら、私は窓の外を見る。
夕日が街を赤く染めていた。
人が歩いている。 笑っている。 煙が上がっている。
生きている世界の色だった。
その光景を見た瞬間。
頭の奥で、何かが弾ける。
――燃える街。
――黒い空。
――泣いている少女。
「っ……!」
突然の痛みに、私は壁に手をついた。
「ちょ、ちょっと!?大丈夫!?」
セレスが慌てる。
「だ…大丈夫……」
なにか忘れちゃいけないことを忘れている。その感覚だけが、胸の奥に棘みたいに刺さっていた。
「ほんとに大丈夫?」
セレスが不安そうに顔を覗き込む。
近い。
金色の髪がふわりと揺れて、甘い匂いがした。
「……近い」
「え?」
「顔」
「今そこ!?」
セレスがむっとする。
その反応が少しおかしくて、思わず笑いそうになった。
でも次の瞬間、頭痛がまたぶり返す。
頭のなかになにかが反響する
――「助けて」
――「……」
――「私にはできない。」
気付けば私は気を失っていた。意識を取り戻したときにはベッドの上にいた。そばにはセレスがおり、彼女は私が起きたことに気付くと、驚いた顔でフィレンを呼びに行った。バタバタと騒がしい足音が廊下に響き、すぐに部屋の扉が勢いよく開いた。
「フィレン、連れてきたわよ! ほら、本当に目を覚ましたんだから!」
息を弾ませながら部屋に飛び込んできたのは、やはりセレスだった。金色の髪を揺らしながらベッドの脇まで駆け寄ってくると、私の顔をじっと覗き込んでくる。
そのすぐ後ろから、音もなく静かに部屋に入ってきたのはフィレンだ。彼女はセレスの騒ぎっぷりに小さくため息をつきながらも、その冷徹な視線をまっすぐに私へと向けた。
「……気分はどうですか」
フィレンはベッドのそばまで来ると、静かに問いかけた。
「……最悪」
喉が乾いていた。 身体も重い。
まるで長い夢から無理やり引きずり起こされたみたいだった。
「それは結構。死にそうな顔はしてません」
「その言い方どうなのよ……」
セレスが呆れた声を出す。
私はゆっくり上半身を起こした。
「女王様、私の部屋の棚から薬箱をとってきてもらえませんか?」
「えー……やだよ、フィレンの家、嫌になるぐらい遠いじゃん。」
「早くとってきてください!命が関わるんですよ!」
「はいはい。取ってくればいいんでしょ!」
セレスは速足で部屋からでていった。そして少しの沈黙が部屋のなかに漂う。
「ノア、少し話をしましょうか。」
そっとフィレンが呟く。
「うん、いいよ。」
私がそう答えると、フィレンはベッドの脇に置かれていた椅子へ静かに腰掛けた。
窓の外では風が鳴っている。 夜の王都は昼よりずっと静かで、教会の鐘の音だけが小さく響いていた。
「まず確認します」
フィレンはまっすぐ私を見る。
「貴女は本当に、自分がどこから来たのか覚えていないんですね」
「……うん」
「名前も」
「ノアって名前しか分からない」
「その名前も、本当かは不明」
「そうなるね」
フィレンは少し考え込むように目を伏せた。
「では質問を変えます」
「?」
「貴女、“ニンゲン”という種族についてどこまで覚えていますか」
その言葉に、私は眉をひそめた。
「どこまでって……」
当たり前のものだと思っていた。
ニンゲン。 羽がなくて。 角もなくて。 魔法も使えなくて。
「……本当に?」
「……分からない」
「そうですか」
「ちょっと待って。」
フィレンはキョトンとした顔で見つめる。
「なんでニンゲンを知ってるの?セレスは知らなかったのに。」
その質問に、フィレンは少しだけ顔をしかめた。
まるで、その問いが来ることを分かっていたみたいに。
「……私は長く生きていますから」
「それだけ?」
「それだけです」
絶対嘘だ。さっきからずっと感じていた。
フィレンは何かを知っている。
私のことも。 “門”のことも。 ニンゲンのことも。
でも、それを全部隠している。
「納得してませんね」
「うん」
「正直で結構です」
フィレンは小さくため息をついた。
「では少しだけ昔話をしましょうか」
部屋の空気が静かになる。
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
「今から700年前ぐらいですか……私がまだ若かった頃にも一度、"門"が開きました。そのときにもあなたと同じように一人のニンゲンが降ってきました。」
「700年……?フィレンって何歳なの?」
咄嗟に口がでてしまった。
「女性に年齢を聞くのは失礼ですよ。あなたも女性ですから分かりますよね。」
フィレンは咳払いをして続きを話す。
「……当時の私は、今ほど偉くもありませんでした。ただの修道女見習いです。毎日怒鳴られながら掃除をして、祈りをして、聖典を書き写して……まあ、今の女王様よりは真面目でしたね」
「比較対象ひどくない?」
「事実です」
即答だった。
「その頃は他種族との争いも多かったです。毎日獣人が王国に押しかけて来て、食べ物をねだってきたり。竜人が闘いを申し込んできたり。」
「治安悪かったんだね。」
「はい。ですが、当時現れたニンゲンはその争いを解決に導いてくれました。そしてこの世界中の人々がニンゲンを褒め称え、崇めました。私も実際にお会いしたことがありましたが、とても勇敢で優しい方でしたよ。」
「ですが、その崇拝もすぐに終わりました。」
「……なにがあったの?」
「千日の功も一朝の過ちと言いますかカリスマの崩壊と言いますか……簡単に言えば、ニンゲンは失脚し、結果的には過激派に殺害されました。」
「……」
部屋に沈黙が落ちた。
私は何を言えばいいのか分からず、ただフィレンを見つめる。
フィレンは静かだった。 まるで遠い昔の墓を掘り返しているみたいに、淡々とした口調で続ける。
「もっとも、正確には“殺されたことになっている”……ですが」
「え?」
「遺体が見つからなかったんですよ」
風が窓を揺らした。
カーテンがふわりと膨らむ。
「そのニンゲンは突然姿を消しました。王国は“処刑した”と発表しましたが、実際には誰も最後を見ていない」
「なんでそんな嘘を?」
「民衆を落ち着かせるためでしょうね。当時は混乱していましたから」
フィレンは指先を組みながら続ける。
「ニンゲンはあまりにも特別すぎた。争いを止め、病を癒し、言葉一つで国を動かした」
「すごい人だったんだ」
「ええ。ですが、人は理解できないものを恐れます」
その言葉だけ、少し重かった。
「最初は救世主でした。でも次第に、“なぜニンゲンだけがそんな力を持つのか”と疑われ始めた。やがて恐怖は憎悪に変わった」
「……」
「ありがちな話ですよ」
フィレンは笑わなかった。
「救いを求めたくせに、救われると今度は支配されることを恐れる」
どこか諦めたような声だった。
「ねぇ、フィ……」
喋り出そうとした矢先、部屋に聞き覚えのありすぎる声が充満した。
「フィレン!取ってきたよ!」
「ありがとうございます。女王様。」
走ってきたのだろう。ぜぇぜぇと息が切れている。
「これを飲んでください。」
「うん……」
フィレンは薬を渡してくれた。とりあえず飲んだ。苦かった。
「ノア!起きてすぐで申し訳ないけど今からお風呂にはいるわよ!」
「わ、わかった。」
セレスの勢いが凄くて戸惑ってしまった。しかし、久しぶりのお風呂はとても気持ちがよかった。考えてみれば何日ぶりなのだろうか。湯気が白く視界を埋めていた。
大理石でできた広い浴場。壁には金色の装飾が施され、天井には魔石らしき灯りが淡く輝いている。どこか神殿みたいな空間だった。
「……広」
「でしょー!」
セレスは得意げに胸を張った。なぜ彼女が誇らしそうなのかは分からない。
「王族専用だからね!」
「そんなところに入っていいの?」
「私がいいって言ってるんだからいいの!」
ものすごく雑な理論だった。
私は湯船の縁に手をつきながら、ぼんやりと湯気の向こうを見る。 暖かい。 身体にまとわりついていた疲労が、少しずつ溶けていくみたいだった。
暗闇では温度すら曖昧だった。冷たいのか熱いのかも分からない場所で、ただ歩き続けていた。
だから今、この湯の感覚だけでも妙に現実味がある。
「ノアってさ」
隣で湯をばしゃばしゃしていたセレスが、急にこちらを見た。
「その傷、覚えてないの?」
「傷?」
「背中の」
言われて、自分の肩越しに背中を見ようとする。 当然見えない。
「なんか変なのあるわよ。古い傷みたいなの」
「……」
心臓が少しだけ嫌な音を立てた。
「見せて」
「えー?なんで私が」
「いいから」
セレスはぶつぶつ言いながらも後ろに回り込む。
数秒後。
「……うわ」
「なに」
「これ、傷っていうか……」
セレスの声が少し低くなった。
「焼け跡みたい」
その瞬間。
――炎。
頭の奥で赤い光景が弾けた。
燃え落ちる家。 黒煙。 誰かの悲鳴。
そして。
背中が焼けるように熱い。
――逃げて……!
――この子だけでも……
――そんなの私にはできない。
「ノア?」
「セレス、何時間経った?」
「何時間って……まだ数十秒しか経ってないよ?」
「…………そう」
セレスは首を傾げた。
「なに? 急に怖い顔して」
「……いや」
私は額を押さえた。 まただ。 記憶の断片だけが、頭の中に刺さってくる。
炎。 悲鳴。 焼ける匂い。
でも、それ以上は思い出せない。
「本当に大丈夫? のぼせた?」
「多分」
「多分って……」
セレスは不安そうに眉を下げたあと、急にぱっと顔を明るくした。
「じゃあさ! 気分転換しよ!」
「気分転換?」
「明日、この国を案内してあげる!」
勢いがすごい。
「女王ってそんな暇なの?」
「失礼ね! ちゃんと忙しいわよ!」
「じゃあ仕事しなよ」
「…………」
セレスは露骨に目を逸らした。
「図星なんだ」
「うるさい!」
湯をばしゃっとかけられる。 顔にお湯が飛んできて、私は思わず笑ってしまった。
するとセレスは少し驚いた顔をした。
「……ノアって、ちゃんと笑えるんだ」
「え?」
「最初会った時、死体みたいな顔してたから」
「ひどい」
「事実よ」
フィレンと同じことを言う。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ――。
こうして誰かと馬鹿みたいな会話をしている時間が、妙に心地よかった。
◇
風呂から上がると、セレスが勝手に用意したらしい服を渡された。
「これ着て!」
「……なんか高そう」
「実際高いわよ」
「返す」
「着なさいよ!」
半ば押し切られる形で着替える。
白を基調にした服だった。 柔らかい布で、肌触りが妙に良い。
「……」
鏡を見る。
そこに映っていたのは、知らない少女だった。
黒い髪。 碧い瞳。 痩せた身体。
背中には、火傷のような痕。
「ノア?」
気づけば、鏡をじっと見つめていたらしい。
「……なんでもない」
私は視線を逸らした。
「とりあえず、今日はもう遅いから寝よう!」
「分かった」
そうして私はセレスに手を引っ張られ、寝室までつれていかれた。するとクイーン……いやキングぐらいはあるであろうベッドがあった。さすが一国の女王だ。
「ささ、早く寝よ。」
「まさかとは思うけど一緒のベッドなの?」
「そうにきまってるでしょ!」
立ち尽くしていると、セレスは既にベッドに寝っ転がっていた。
「……ほんとに一緒に寝るの?」
私はベッドの端に立ったまま、もう一度確認した。
「当たり前でしょ」
セレスは布団の中から顔だけ出して即答する。
「ここ、私の部屋だし」
「そういう問題じゃなくてさ……普通、女王と知らない人が同じベッドで寝ないと思うんだけど」
「知らない人じゃないでしょ。ノアでしょ」
理屈が雑すぎる。
私はため息をつきながら、ベッドの端に腰を下ろした。マットレスが沈み、やけに柔らかい感触が背中に伝わる。
その瞬間だった。
――ズキッ。
背中の傷が、熱を持ったように痛んだ。
「……っ」
「また?」
セレスがすぐに気づく。
「さっきもその顔してた」
「大丈夫」
「嘘でしょ」
彼女は布団から出て、私の背中を覗き込もうとする。
「見ないで」
思わず声が強くなった。
セレスは一瞬だけ動きを止めて、それから少しだけ目を細めた。
「……なんで?」
「なんでも」
「ふーん」
それ以上は踏み込んでこなかった。意外なくらいあっさりと引く。
代わりに、ぽん、と布団を叩いた。
「じゃあ寝る」
「早いね」
「眠いし」
彼女はあっという間に横になると、私の方に背中を向けた。
その無防備さに、逆に戸惑う。
「警戒心なさすぎじゃない?」
「あるわよ」
「どこに」
「ノアは多分、悪い人じゃないし」
「……根拠は?」
「勘」
即答だった。
私は思わず小さく笑いそうになって、それを飲み込んだ。
「適当すぎる」
「女王の勘、結構当たるのよ?」
「信用できないな、それ」
「ひどい!」
布団の中でごそごそ動く気配。
やがて静かになる。
部屋は一気に静かになった。セレスは……多分寝た。あまりにも早すぎる。さっきまで話していたのに。
……静かだと余計考え事をしてしまう。自分は何者なのか。もといたところに帰れるのか。考えれば考えるほど不安になっていく。でも、欲求っていうものはすごいものですぐ眠たくなっていった。疲れていたというのもあるけども。




