第22話 南への出立
朝日が昇り始めた頃、武は重いまぶたをこすりながら城の中庭へ向かった。
眠れなかった。
不安と緊張、そして自分でも説明できない期待が胸の中で入り混じり、結局ほとんど眠れないまま朝を迎えてしまったのだ。
(本当に行くんだな……)
中庭にはすでにルシエラとアレクが待っていた。
二人とも旅装束に身を包み、普段よりも引き締まった雰囲気を纏っている。
「遅いぞ、武」
アレクがひらひらと手を振った。
「まだ集合時間の五分前だろ」
「勇者は常に三十分前行動だ」
「そんなルール初めて聞いた」
「今決めた」
「適当すぎるだろ」
朝から変わらないアレクに、武は少しだけ安心した。
ルシエラが近づいてくる。
「準備はできたか?」
「まあ、なんとか」
武の荷物は最低限だ。
着替えと水筒、簡単な保存食くらいしかない。
異世界に来てから長旅など経験したことがないのだから当然だった。
ルシエラは武の肩を軽く叩く。
「心配するな」
「顔に出てたか?」
「出ている」
即答だった。
少し恥ずかしい。
「お前の役目は戦うことではない」
「そうなのか?」
「真相を知ることだ。継承者が何者なのか、お前自身が何者なのか。その答えを探す旅になる」
武は小さく息を吐いた。
答えを探す旅。
確かにそうだ。
昨日までの自分は普通の会社員だった。
それなのに今では魔王の欠片を持つかもしれない存在として旅に出ようとしている。
人生とは本当に分からない。
「大丈夫だって」
アレクが笑いながら武の背中を叩いた。
「何かあれば俺が守る」
「お前は守るより暴れそうなんだが」
「守りながら暴れる」
「余計不安だ」
「ちなみにルシエラもいる」
「それは安心できる」
「俺との差が酷い」
そんなやり取りをしながら三人は城門へ向かった。
兵士たちが整列し、一斉に頭を下げる。
「魔王様、ご武運を!」
「お気をつけて!」
ルシエラは軽く手を上げるだけだったが、その姿には自然と人を従わせる威厳があった。
武は改めて思う。
この人は本当に魔王なのだと。
城門を抜けると、広い街道が続いていた。
目的地である南方都市エルバニアまでは五日ほど。
そこにもう一人の継承者がいる。
「普通に歩けば五日だな」
ルシエラが言う。
「俺たちなら三日だ」
アレクが自信満々に胸を張った。
「俺がいるから五日だろ」
「武を鍛えれば三日だ」
「鍛えないでくれ」
「鍛える」
「やめろ」
旅が始まってまだ一時間も経っていないのに疲れてきた。
そんな調子で進んでいく。
最初の数時間は何事もなかった。
穏やかな風が吹き、青空が広がる。
だが昼前になる頃には景色が変わり始めた。
街道の先に巨大な森が見えてきたのだ。
「あれが南方大森林だ」
ルシエラが説明する。
武は森を見上げた。
とにかく大きい。
日本で見たどんな森よりも圧倒的だった。
木々は空を覆い隠すほど高く、遠くから見ても内部が薄暗いことが分かる。
「なんか入ったら帰れなくなりそうだな……」
「実際、迷う奴は多い」
「怖いこと言うな」
アレクが笑う。
「安心しろ。迷ったら俺が勘で何とかする」
「その発言が一番怖い」
やがて三人は森へ入った。
瞬間、空気が変わる。
ひんやりとした冷気。
湿った土の匂い。
頭上を覆う木々。
外の世界が遠く感じられた。
「暗いな……」
武が呟く。
「魔力が濃い土地だからな」
ルシエラが答える。
「植物の成長速度も異常だ」
足元を見ると青白く光る花が咲いていた。
まるで幻想世界のような光景だった。
「綺麗だな」
「夜はもっと綺麗だぞ」
アレクが言う。
「昔、その花を売ろうとした商人がいた」
「売れたのか?」
「翌日全部枯れた」
「なんで?」
「知らん」
適当だった。
武はため息をつく。
しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
突然、アレクの表情が変わる。
「……来たな」
空気が張り詰めた。
「何が?」
「左前方」
武には何も分からない。
だが次の瞬間。
ガサガサッ!!
茂みが激しく揺れた。
飛び出してきたのは巨大な猪。
体長三メートル以上。
鋭い牙。
赤く光る目。
「うわっ!?」
武が後退る。
「フォレストボアか」
アレクが呟く。
「弱いな」
「どこが!?」
フォレストボアが突進する。
地面が揺れた。
木々をなぎ倒しながら迫ってくる。
武は死を覚悟した。
しかし次の瞬間。
ドォォォン!!
衝撃音が響く。
巨大な猪が宙を舞った。
何が起きたのか理解できない。
十数メートル先の木へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
原因はアレクだった。
「殴った?」
「殴った」
「剣は?」
「使ってない」
「なんで?」
「弱かったから」
武は頭を抱えた。
勇者の基準がおかしい。
ルシエラも呆れている。
「相変わらず加減を知らんな」
「手加減したぞ」
「それでか」
結局、フォレストボアは一撃で倒された。
武が戦う出番など一切なかった。
その後も森を進む。
小型の魔物が現れてもアレクが倒し、危険そうな場所はルシエラが見抜く。
武だけが普通の人だった。
そして昼過ぎ。
開けた場所で休憩することになった。
武は切り株へ腰を下ろす。
「疲れた……」
「体力ないな」
「うるさい」
水筒を受け取り、一息つく。
その時だった。
ルシエラが急に立ち上がった。
アレクも真顔になる。
空気が変わった。
「どうした?」
武が尋ねる。
二人は周囲を見回していた。
「妙だ」
アレクが呟く。
「何が?」
「静かすぎる」
武は耳を澄ませた。
確かにおかしい。
鳥の声がない。
虫の音もない。
森全体が沈黙していた。
「生き物の気配が消えている」
ルシエラの声が低くなる。
武の背筋を冷たい汗が流れた。
嫌な予感しかしない。
そして。
――グォォォォォォォォォォッ!!
巨大な咆哮が森を揺らした。
空気が震える。
地面が揺れる。
遠くで鳥たちが一斉に飛び立った。
武は思わず立ち上がる。
「な、なんだ今の!?」
アレクが笑った。
だがその笑みは普段の軽いものではない。
強敵を前にした戦士の笑みだった。
「面白い」
「面白くない!」
ルシエラも眉をひそめる。
「この森にいるはずがない」
「知ってるのか?」
武が聞く。
ルシエラはゆっくり頷いた。
「恐らく上級魔獣だ」
武の顔色が変わる。
上級。
その言葉だけで危険なのが分かった。
「なんでそんなのがいるんだよ……」
しかし誰も答えられない。
再び咆哮が響く。
今度は先ほどより近い。
ズシン。
ズシン。
地面が揺れ始めた。
何か巨大なものが近づいている。
木々の向こうから圧倒的な威圧感が迫ってくる。
武は無意識に拳を握った。
旅は始まったばかりだ。
だがその初日から、想像以上の危険が待っていた。
そして三人はまだ知らない。
この異変が、南方で暴れたもう一人の継承者へ繋がる最初の手掛かりになることを――。




