第15話 勇者より危険な甲虫
食堂は静まり返っていた。
勇者アレク。
魔王ルシエラ。
聖女フィリア。
そして巨大魔物ジェノアビートル。
本来なら世界の命運を左右する面々が集まっているはずなのに、誰も動かない。
いや、動けなかった。
理由はただ一つ。
「…………」
ジェノアビートルが、じっと武を見ていたからだ。
赤い単眼が、まるで獲物を値踏みするように武を捉えている。
嫌な予感しかしない。
「おい……」
武が後ずさる。
するとジェノアビートルも一歩前へ出た。
「来るな」
一歩下がる。
一歩近づく。
「来るなって!」
さらに下がる。
さらに近づく。
完全について来ていた。
「犬かお前!」
その瞬間だった。
ジェノアビートルが突然身体を低くし――
ぺたり。
武の足元へ頭を擦りつけた。
沈黙。
全員が固まる。
「…………え?」
武が声を漏らす。
ジェノアビートルは嬉しそうに頭を押しつけている。
どう見ても懐いていた。
「なにしてんの?」
アレクが素で聞いた。
「俺が聞きたいわ!」
武が叫ぶ。
ルシエラが目を細める。
「どうやら完全に主認定されているようですね」
「認定されてない!」
「されています」
「されてません!」
言い争う二人の足元で、ジェノアビートルはご機嫌そうに甲殻を鳴らした。
ガチガチガチ。
その音だけで周囲の魔族兵が青ざめる。
「ひっ……!」
「近寄るな!」
「食われる!」
兵士たちは壁際まで避難した。
武は頭を抱える。
「なんでこうなるんだよ……」
フィリアが冷静に分析した。
「おそらく以前の戦闘です」
「戦闘?」
「通常、ジェノアビートルは敗北を認めません。しかしタケルさんに敗れたことで、服従対象として認識した可能性があります」
「いやいやいや」
武は首を振る。
「俺ほとんど何もしてないからな?」
実際、最後はほぼ偶然だった。
だが周囲は納得していない。むしろ尊敬の眼差しだった。
「さすがタケル様……」
「伝説級魔物まで従えるとは……」
「魔王様すげぇ……」
「違うから!」
武の否定は誰にも届かない。
その時だった。
アレクがジェノアビートルへ近づいた。
「へぇー」
「おい」
「なるほどなるほど」
「おい」
「結構かわいいね」
「おい!」
勇者は警戒心がなかった。
ジェノアビートルが単眼を向ける。
アレクも笑顔を向ける。
数秒の沈黙。
そして――
バキィッ!!
ジェノアビートルの拳が振り下ろされた。
「うおっと」
アレクは軽やかに回避する。
床が砕け、食堂が揺れた。
「かわいくねぇぇぇ!」
武が絶叫する。
だがアレクは楽しそうだった。
「元気だね」
「感想がおかしい!」
ジェノアビートルが追撃する。
右腕、左腕、上腕、下腕。
四本の腕が同時に襲いかかる。
だがアレクは避け続ける。
紙一重の回避。
まるで踊っているようだった。
「へぇ」
ルシエラが小さく呟く。
「勇者は伊達ではありませんね」
「当然だよ」
アレクは笑う。
その直後、聖剣が抜かれた。
キィン――。
食堂に澄んだ音が響く。
神々しい光が溢れ出し、魔族兵たちが震えた。
聖剣。
魔王軍最大の天敵。
その刃がジェノアビートルへ向けられる。
「ちょっと試そうかな」
「試すな!」
武は即座に止めた。
「食堂でやるな!」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
「半壊くらいで済むから」
「十分被害だろ!」
ルシエラも頷く。
「全壊しなければ問題ありません」
「お前も感覚おかしいからな!?」
その時だった。
ぐぅぅぅぅぅ。
妙な音が響く。
全員の動きが止まった。
再び音が鳴る。
ぐぅぅぅぅぅ。
武は嫌な予感を覚えた。
視線が集まる。
音の発生源は――
ジェノアビートルだった。
「腹減ってるのか?」
甲虫は頷くように頭を動かした。
アレクが感心する。
「賢いね」
「そこじゃない」
フィリアが小さく手を上げた。
「食堂ですので」
「うん」
「食事を与えれば解決では?」
全員が黙る。
数秒後。
「それだ!」
武は叫んだ。
五分後。
巨大な肉の塊が運ばれてきた。
ジェノアビートルは飛びついた。
むしゃむしゃむしゃ。
凄まじい勢いで食べ始める。
誰も襲わない。
暴れない。
ただ食べている。
食堂は平和だった。
「……解決したな」
武が呟く。
「しましたね」
ルシエラが頷く。
「しましたね」
フィリアも頷く。
「したね」
アレクも頷く。
「勇者が一番何もしてねぇ!」
武は叫んだ。
その瞬間だった。
警報が再び鳴り響く。
『緊急警報! 緊急警報!』
全員が顔を上げる。
新たな魔族兵が飛び込んできた。
顔面蒼白だった。
「た、大変です!」
「今度はなんですか」
ルシエラが尋ねる。
兵士は震える声で叫んだ。
「ジェノアビートルが城内に侵入したとの報告を受けまして!」
全員沈黙。
兵士は続ける。
「現在、食堂方面へ向かっている模様です!」
食堂を見渡す。
目の前には肉を食べるジェノアビートル。
再び沈黙。
そして武は思った。
――この城の情報伝達はどうなっているのだろうか。
しかし次の報告で、その疑問は吹き飛んだ。
「さらにもう一体確認されました!」
「…………は?」
武の顔が引きつる。
ルシエラも固まる。
フィリアも固まる。
アレクだけが楽しそうに笑った。
「面白くなってきたね」
武は天を仰いだ。
どうやら平穏な日々は、まだまだ遠いらしい。




