全てが変わる日
「情けねえ。たったあれだけで逃げ出すとはな」
広い肩幅に良く似合っていたワイシャツの袖をまくったラフな格好の男がそう声をかけて近づいてくる。
銀色の短髪に、整えてある髭、眉間に刻まれた皺。たった数分も経たない内に、見た目とその話し方から、想像上での頼れる兄貴のような豪快さを感じる。そしてその黒い眼は、光無くずっと深い闇のようだ。
「まさか、神か何かなのか?」
「神、か。ふふ、やはり『特異』も感知できねえらしい。ま、好都合だが」
神の知識を知り得ているようで、会話に大きな支障は出ていない。ただ俺の質問には軽く笑うばかりだ。
「いけねぇ、名乗る習慣がすっかり抜けてる。俺は針の魔神にして、『特異』のラーズだ。転生者、お前さんを魔神に引き入れに来た」
「魔神? それに……特異? な、何の話だ」
「そのまんまだよ。魔神になって好き勝手しようってこった。さっきのあれみてえに、な」
さっきの。あの事件のことか。
「魔神はいいぜ? 愚かな家畜どもで好きなときに遊べる。ああやって俺がそそのかすこともな」
「……どういうことだ。そうさせただと」
強烈な感情を露にしていたが、神器らしい規模の大きな力は有していなかった。人間同士で争わせたがっているが、あくまでその精神にのみ干渉し、古代から続くような人間の小さな力によって破滅へと向かう経過を他人事のように、家畜の鳴き声かのようにあざけ笑っている。
「なぁに、少し研究だよ。少し家族とやらを減らしてみて、後は何したっけな」
こいつは人間でもない上に良心もなかった。
人間の感情などに微塵も興味を持たず、そこらの雑草のように違いも知らなかったのだろう。奪うものの価値も知らない。
「はっはは! 怖い顔すんなよ。兄ちゃんには、んなことしねーからよ」
豪快に笑う姿は気持ち良さそうに見えたが、もう俺はラーズの何もかもに不気味さがしてならなかった。
「これが魔神さ。人様が勝手につくりあげた冷酷で、残虐な存在」
解釈や考察のいくらでも生まれる言葉であったが、俺は神との契約の時のようでなく、何の魅力も感じはしなかった。
「おう。それじゃあ早速だが俺たち側につくか?」
「そ、そんなの興味無い。それに俺は神にだってなる気は……」
「だったら死ぬか?」
ラーズから笑顔が消え去る。雑草のように、要らないものはとことん要らないのであろう。
「んー、俺らからして敵に回るなら先に始末するってこと。意地でも生き永らえるか、どうする?」
神とは敵対するということは、あの3人とももちろんだ。
迷惑をかけるわけにはいかない。ただ死ぬことも何かの解決にはなりはしない。俺はまだ人間として生きていたい。
こいつとの交渉では何も解決はできないなら逃げるしかない。
「ずいぶん大切そうだな。それ。へへ、女か?」
気味の悪い悪寒が背中を走る。たとえケーキでなくとも決して落として土を着けたくない、気持ちを込めた大切なものだ。それだから魔神という恐怖を前にしても決して、力ずくで拳を振るってでも奪わせはしない、と怒りが込み上げる。
「兄ちゃんよお。お馬鹿でやかましい乙女さんなんかじゃあねえなら、俺の言いたいことはわかるはずだ。これが最後だぜ」
「誰かっ、誰かぁっ!」
もしかしたらなんとか退いてくれるかと一か八かの賭けに出る。
「……あいよ、わかった。『流星の針』」
ざざざあっ。
突風でも吹いて葉桜が揺れたかと思ったが、大砲で撃ち貫かれたように両手で目一杯囲んだほどの大きさの穴がぽっかり空いていた。
「遅っせぇ。見えもしてないか」
ラーズの神器だ。丁寧に説明などされないが、何かを飛ばしているようだ。
「っはー。本当に俺は仕事ができねえな。一丁前に頑固な兄ちゃんに意地になってら」
不意の自虐は俺にとって最期の会話であった。
「何ら成果は無し、っと」
「がっ……お……」
右腕と鳩尾のやや横の辺りに一瞬だけ、何かを勢い良く引き抜いたときのような高熱が発生した。
「ふぅ……ふ……」
多分もう数回の呼吸しかできなかった。
「───だな。もう聞こえ───な。ははは」
倒れて俯いているとじわりと温かい血がバケツをこぼしたように広がっていた。ラーズの声がして、身をちぢこめても、出血を抑えてももう助からないと考えられる理性は無く、少しでも周りの状況を知り、不安を消したいと体が動く。
あ。ケーキ。
攻撃を受けてそのまま放り出してしまったんだな。真っ逆さまだ。
俺、このまま死ぬのか。
もうだめだ。何も見えない。息も苦しくて、頭がぐらぐらする。
これで良かったのかもな。
俺は散々女神をたぶらかしてきた。
馬じゃあなくて、魔神に惨めに殺される終末になっていたんだ。
「安心しな。きっと寂しがる女のことは任せとけ」
女、3人のことか。
まだガキだからわからないが、きっと無理矢理そうされるのか。
「うるせぇ……」
「あん?」
「うるせぇ……オレにこんな傷をつけといて、大事な贈り物も、オレなんかにはもったいねえ女神達を危険に晒してたまるかよ!」
怒りに身を任せた俺は困惑するラーズの前に立ちはだかっていた。
「おいおい……すげーいてーだろ?」
「気に入らねえ。気に入らねえからこそ───破壊する」
「え」
「神罰『破壊神の癇癪』」




