2人目
「クラッキー」
「クラッキー」
闇の中で誰かが叫んでいる。
もしかして俺のことか?
確かに俺は倉木だがそんなポップなあだ名で呼ばれたことなんてないぞ。
というか誰だ。
「クラッキー」
「うおっ」
琥珀色の目がまつ毛の一本一本がわかるほど間近にあった。
この目って、確かヨクスの目の色だよな。
「うふふ」
いや。誰だこの人。
笑いながら顔を遠ざけられると、ヨクスの金髪と違って黒髪のショートヘアだ。
顔は……目の色だけではっきりわからないな。
「待って、くれ……」
女の子は手招きをして俺から離れていく。その手を掴もうとするが腕が重い。駆ける足も雪山を登ってるみたいに踏みしめてる感覚が無い。
「きみは……誰なんだ……」
「あー……夢か」
まさか夢まで女が出るとは。ヨクスのことで浮かれてるのか。
けどヨクスじゃあなかったよな。
ヨクスみたいな琥珀色の目で、顔は……どうしても思い出せない。けど。
「はぁ……」
いつだったか、狂ったほど夢中だった恋愛ドラマを見てた時みたいに、心が切なくなってる。
テーブルの上を見てみるとヨクスの置いていったペアリングがポツンと置かれていて、昨日のことは夢ではないと確かめた。
約束はしたもののいつ来るのかもわからないので、まずは洗面所で顔を洗って朝食でも買えるように出かける格好に着替えた。
しばらく漫画雑誌を読みながら時間を潰していると9時前にインターホンが鳴った。
「おはようございます。もう起きてらっしゃいましたか」
「はい。えーとそれは?」
ヨクスの持っていたバスケットが何か聞いてみた。
「パンを焼いてきました。朝食にどうでしょうか」
わざわざ朝食を作ってきてくれるとは。出かける手間が省けるので俺は素直に感謝した。
「えへ。お口に合ったら幸いです」
ヨクスは照れ臭そうにはにかんだ。
当たり前だけど、ヨクスの顔は昨日と同じ、全くおんなじ顔だ。
とても綺麗で、眩しいほどの笑顔は誰だって見惚れるだろう。現にこの俺も。
けどたった今、初めて会った時のあのときめく感じが幻だったみたいに、無意識に真顔になってしまっていた。
ヨクス。目の前にいるのはヨクスに違いない。顔や雰囲気だってなんの違和感も無かったから。だったらこの気持ちの変化はもしかして。
俺、ヨクスのことが好きじゃなかったのか?
好きじゃあなくなった?
ヨクスが作ってきたパンは鮮やかな色のジャムがふんだんに使われたものだ。きっと豊穣神ならではなんだと思う。
見た目に違わずふわふわで、冷めてはいるものの普段食べているものよりも素材である小麦の旨味のようなものが味わえる。
「ヨクスさんは食べないんですか? あ、というより神様って何か食べたりするんですか?」
パンを頬張る俺をじっと見ていたヨクスにも食べるように促したが、そもそも神様に食事なんて必要なのか。
「神であっても食事は必要ですよ。人間と比較すると生命力は高いので、そう死活問題にはなりかねませんが」
「毎日栄養を補給するために食べ続ける、っていうことをしないんですか」
「ええ。定期的な間食程度です」
冬眠する熊だったり、しばらく飲まず食わずでも平気なアリジゴクなんて昆虫もいる。未だに未知の生態系も考えられなくはない。
「いただきますね」
パンを手にとって行儀よく一口大にちぎってから口に運ぶ。誰であっても食べているところをジロジロ見るのは失礼だし、俺は自分に自信が無いから、嫌われたりしないかなんて考えてじっと目も合わせられない。
はずだったのに。
飲食店のウェイトレスと話すときなんかは、接客業だからと割り切って自分をよく見せたり、背伸びなんかはしない。
今の俺はまさしくその通りだった。ヨクスの美しさを、用意された朝食を、無償で尽くされる愛ではなく、誰にでも振る舞われるサービスとして堪能しているだけであった。
上手く笑えていただろうか。ヨクスは好きなことである料理ののことをいっぱい話していた。最近人と話すことがなくて、人間の社会的本能のせいか、会話をしてみた正直な感想は楽しかった。
この時間が一番楽しかった。このまま調子を落とさず、盛り上がり過ぎないようにと願った。
「あ。お客さんでしょうか」
「あー……誰だろう……って、待った待った! 俺が出ますから!」
女神との会話を遮るインターホンが鳴り、当たり前のようにそれに応対しようとしたヨクスを制した。俺は慣れたけどまずそんな格好じゃあ怪しまれるに決まってる。そう言えば神にもこんなインターホンみたいな文化はあるのかな。妙に慣れてるようだけど。
「どちらさんですかー」
ヨクスを部屋の奥に残して、訪問者が待つドアを開いた。
ドアの前には1人の少女が立っていた。大人びたヨクスと比べるとやや年下か。いや、神様に年齢なんかあるのか。けど少なくとも高校生くらいで俺と歳は近そうだ。
褐色の肌に、赤く長いツインテール。八重歯の覗く唇は、俺を見るなり、にやりと笑った。




