第一話 ログイン、そして規約
光が、収まっていく。
まぶたの裏で暴れていた白が、少しずつ輪郭を持った景色に変わっていった。
目を開けると、そこは見知らぬ草原だった。
抜けるような青空。風に揺れる銀色の草。土と緑の匂い――三ヶ月間、病室の消毒液の匂いしか嗅いでいなかった俺の肺が、それだけで震えた。
「動く……」
自分の指先を、何度も握ったり開いたりする。痛みはない。管も繋がっていない。当たり前だったはずのことが、涙が出るほど有り難かった。立ち上がってみる。膝が笑うこともない。三ヶ月ぶりの、自分の意思で動く身体。
俺は思わず、その場で何度か足踏みをしていた。子供みたいだと自分でも思ったが、止められなかった。
ひとしきり身体の感覚を確かめたあと、視界の端に半透明のウィンドウが浮かんでいることに気づいた。
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【ステータス】
名前:???
種族:ヒューマン
LV:1
HP:12/12 MP:8/8
STR:5 VIT:5
AGI:5 INT:5
延命ポイント(LP):30日分
【所持スキル】
・痛覚遮断
・観察眼
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ゲームのステータス画面そのものだった。だが「延命ポイント」という項目だけが、明らかに異質だった。指で触れると、続けて注意書きが展開される。
■Elysium利用規約 抜粋
第3条:LP(延命ポイント)は現実世界における
生体維持エネルギーに相当する。
LPが0に達した場合、現実の生体活動は
停止する。
第7条:LPはサーバー内総量制とする。
プレイヤーが経験値を獲得した場合、
増加分のLPはサーバー内の
他プレイヤーのLPより徴収される。
第9条:LPの譲渡・返還・現金化は
一切認められない。
一度読んで、頭が理解を拒否した。二度目でようやく飲み込めた。
――強くなるということは、誰かの余命を奪うということだ。
俺は思わず声を出して笑った。乾いた、自分でも嫌になるような笑いだった。契約書にサインしたとき、俺はほとんど内容を読んでいなかった。「延命に繋がる報告がある」という佐伯先生の言葉だけを信じて、判を押した。まさか、その延命の仕組みがこれだとは。
優しさじゃ生きられないゲーム。運営はそれを、規約の第7条にさらりと一行で書いていた。
もう一つ、注意書きが続く。
■よくある質問
Q. LPを他プレイヤーから徴収したくない場合は?
A. レベルを上げなければ徴収は発生しません。
ただし、その場合はご自身のLPが
通常のペースで減少し続けます。
要するに――奪うか、削られるか。二択しかないと言いたいらしい。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。三十日という数字が、頭上に静かに浮かんでいる。何もしなければ、三十日で終わる。誰かから奪えば、その分だけ長く生きられる。だが、それは同時に、誰かの三十日を、二十九日に、二十八日にすることでもある。
「……ふざけてる」
呟いた声が、誰もいない草原に吸い込まれていった。
気を取り直して、所持スキルの詳細を確認してみることにした。まず「痛覚遮断」を開く。
【痛覚遮断】
戦闘・行動時の痛みを常時無効化する。
※これは医療目的の特別措置として
付与されたスキルです。
なるほど、と俺は思った。末期がん患者だった俺の身体は、現実では激しい痛みに耐えられない。だからこのスキルが、医療的配慮として最初から組み込まれているのだろう。皮肉な話だ。痛みを感じない身体を手に入れて、俺はようやく"普通に"動けるようになった。
もう一つのスキル、「観察眼」も確認する。
【観察眼】
対象のステータスや弱点を、
一定確率で看破できる。
こちらは特に説明がない。ゲームバランス上の初期スキルなのかもしれない。試しに、近くを飛んでいた小さな虫に向けて意識を集中させてみる。
【解析中……】
【フィールドバタフライ】
LV:1
特筆すべき情報はありません。
なるほど、生き物全般に使えるらしい。使い方が少し掴めた気がして、俺は小さく息をついた。
ステータスウィンドウを閉じ、改めて周囲を見渡す。遠くに森の輪郭、さらにその奥に霞んだ山脈。近くには小さな川が流れていて、水面が陽光を反射してきらきらと揺れている。ファンタジー小説の表紙そのものの景色だった。美しい。だが俺の頭には、さっき読んだ規約の文字列がこびりついて離れなかった。
とりあえず、この場に立ち尽くしていても始まらない。川沿いを歩いてみることにした。三ヶ月ぶりに動かす足は、最初こそぎこちなかったが、数十歩も歩くうちに感覚を取り戻していく。草を踏む音、頬を撫でる風、遠くで鳥の鳴く声――どれもが、病室では味わえなかったものだった。
しばらく歩くと、川沿いに小さな木の看板が立っているのが見えた。近づいて確認する。
【看板】
ここより北東:フィールドB
「静寂の草原」
ここより南:フィールドC
「始まりの村」
――村。
人がいる場所だ。そこに行けば、この世界の仕組みがもう少し分かるかもしれない。同時に、他のプレイヤーと出くわす可能性も高くなる。さっきの規約を思い出し、俺は少しだけ迷った。
だが、いつまでもこの草原で立ち尽くしているわけにはいかない。三十日という数字は、こうしている間にも、静かに減り続けているはずだった。
俺は南――「始まりの村」へと続く道に、足を向けた。
歩き出してしばらく、視界の端に新しい通知が浮かんだ。
【システム通知】
「始まりの村」に接近しています
村人NPCとの会話で、基本的なチュートリアルが
受けられます
チュートリアル、か。とりあえず、この世界の常識をもう少し知る必要がありそうだった。LPのこと、経験値のこと、そして――もし可能なら、"奪わずに生きる方法"があるのかどうかも。
道の先に、小さな煙突からうっすらと煙が上がっているのが見えてきた。人の営みの気配。それだけで、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
三十日という時間の中で、俺はこれから、何を選んでいくのだろう。
まだ何も分からないまま、俺は村への道を歩き続けた。




