プロローグ「余命、30日」
「命を喰うレベルアップ ―僕は誰かの余命で強くなる―」を
読んでいただき、ありがとうございます。
余命三十日の高校生が、VR世界にログインする物語です。
どうぞよろしくお願いします。
天井の染みを数えるのが、日課になっていた。四つ角の右下、水道管の結露が染み込んでできたいびつな楕円形。それを星座みたいに眺めるくらいしか、この部屋にはすることがなかった。
心電図のモニター音が、規則正しく鳴っている。ピ、ピ、ピ、と。その音を聞くたびに、俺はまだ生きているのだと確認していた。
「稜くん、聞こえてる?」
主治医の佐伯先生の声に、俺は薄目を開けた。四十代半ば、いつも疲れた目をしているが、俺にだけは必要以上に優しい声を作る人だった。その優しさが、逆にこれから告げられることの重さを物語っていた。
「先生。正直に言ってください。あと、どのくらいですか」
三ヶ月ぶりに声を出したような、掠れた声だった。先生は一瞬、カルテに視線を落とした。その"間"だけで、答えは分かった。
「……長くて、三十日」
三十日。十七年間積み上げてきたものが、たった三十日で終わる。
膵臓がん、ステージ4。発見時にはすでにリンパ節と肝臓に転移していた。手術適応外、抗がん剤も効果が見込めない。運が悪かった――それだけの話だ。高校二年の春、部活の朝練中に倒れて、そのまま病院送りになった。友達からのお見舞いメッセージも、最初の一ヶ月こそ賑やかだったが、今ではもうほとんど来ない。終わりが見えているものから、人は無意識に目を逸らす生き物だ。
母さんは、俺の治療費のために深夜のパートを掛け持ちしていた。父さんはもう何年も前に出て行った。うちに残っているのは、俺の治療費という名の借金だけだ。通帳の残高を見るあの疲れた横顔を、俺は何度も見てきた。
三十日後、俺は死ぬ。母さんに借金だけを残して。
「一つだけ、選択肢があります」
佐伯先生の声が、俺の思考を遮った。差し出されたタブレットには、見慣れないロゴ――銀色の粒子が渦を巻くエンブレムと、その下に浮かぶ文字。
Elysium
「新しい終末医療です。まだ臨床試験段階ですが、厚労省の特例承認を受けています」
先生の声は、いつもより少し早口だった。
「意識だけを専用サーバー上の仮想世界に移す技術です。肉体はこの病室で維持されますが、意識はそちらで"生きて"いただけます。痛みは一切感じません。むしろ――健康な身体で、自由に動き回れます」
俺は自分の指先を見た。もう三ヶ月、まともに歩くことすらできていない。痩せ細った腕、点滴の痕で青黒く変色した肌。"自由に動く"感覚を、俺はほとんど思い出せなくなっていた。
「延命効果はあるんですか」
「そこはまだ、確実なことは言えません」
先生は正直だった。この人のそういうところは、嫌いではなかった。
「ただ――システム内で"レベル"のようなものが上昇すると、肉体側の生体維持にも良い影響が出る、という報告が一部の被験者から上がっています」
ゲームの中で強くなれば長生きできる。普通なら鼻で笑う話だ。だが今の俺には、笑う余力すら残っていなかった。
「他に、選択肢は?」
「……正直に言えば、ありません」
抗がん剤は効かない。手術もできない。緩和ケアで痛みを抑えながら三十日を静かに過ごすか、このElysiumに賭けるか。
「費用は?」
一番聞きたくなかった質問を、俺は聞いた。母さんの疲れた横顔が頭をよぎる。
「臨床試験の被験者としての参加になれば、費用の大部分は研究費で賄われます。ご家族の負担は、通常の入院費とほぼ変わりません」
その言葉に、俺は詰めていた息を吐いた。安堵というより、母さんに何か返せるかもしれないという、微かな希望だった。
「少し、考えさせてください」
先生が病室を出て行った後、俺はしばらく、タブレットのロゴを見つめていた。銀色の粒子が、ゆっくりと渦を巻いている。まるで俺を誘っているみたいに。
夜、母さんが仕事帰りに顔を出した。いつものように疲れた顔で笑おうとするのが分かった。
「先生から聞いた。Elysiumのこと」
俺が切り出すと、母さんの表情が強張った。
「稜、それは……」
「やってみようと思う」
母さんは何か言おうとして、結局、言葉を飲み込んだ。代わりに俺の手を握った。骨ばった、荒れた手だった。パートで洗剤を触り続けているせいで、いつも指先がひび割れている。
「怖くないの」
「怖いよ」
俺は正直に答えた。
「でも、このまま何もしないで終わるよりは、ずっといい」
母さんは俯いて、しばらく肩を震わせていた。俺は何も言わずに、その手を握り返した。
契約書にサインしたのは、その二日後だった。分厚い書類の束――同意事項、免責事項、データ利用に関する規約。俺はほとんど内容を読まずにサインをした。今思えば、あれが最初の過ちだったのかもしれない。だがあの時の俺には、選択の余地などなかった。
サインを終えた翌朝、俺は専用機材が運び込まれた病室のベッドに横たわっていた。頭部に取り付けられた無数のセンサー、腕に刺さる新しい点滴のライン。佐伯先生が最後にもう一度、俺の顔を覗き込んだ。
「何か不安なことはありますか」
俺は少し考えて、首を振った。
「大丈夫です。行ってきます」
まるでただの遠出をするみたいに、俺はそう言った。自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
「では、始めます」
先生が何かのスイッチに触れる。視界の端が白く発光し始め、光は次第に視界全体を覆い尽くしていく。意識が薄れていくような、それでいて研ぎ澄まされていくような、不思議な感覚だった。
最後に聞こえたのは、モニターの電子音。ピ、ピ、ピ、と規則正しく。
――それが、俺が"死"について最後に考えたことだった。
光の奔流が、俺の意識を飲み込んでいった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次の第一話から、ゲーム世界での物語が始まります。
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