2話『あと少しで、触れられるはずだった』
迷宮最下層へ向かう前夜――
焚き火に手をかざしていると、隣にそっと人の気配が落ちてきた。
「隣、いいか?」
「……はい」
レオン王子が、ためらいなくすぐ隣に腰を下ろす。
近い――そう思った瞬間、息が浅くなる。
肩が触れそうで触れない距離に、意識が引き寄せられる。
ぱち、と薪がはぜる音。
その合間に、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
こんなふうに誰かを意識するなんて、いつぶりだろう。
……いや、こんなにも強く感じるのは初めてかもしれない。
「寒くないか?」
低くて優しい声とともに、わずかに距離が縮まる。
ほんの少しの変化なのに、それだけで胸が大きく揺れた。
「だ、大丈夫です……」
声が少し上ずる。
たぶん気づかれている。
それでも指摘されないことに、ほっとしてしまった。
顔が熱い。
それは焚き火のせいだけじゃない。
……どうして、こんなに意識してしまうんだろう。
ただ隣にいるだけなのに。
もっと、近くにいてほしいとすら思ってしまう。
「ミオは、違う世界から来たんだよね」
「はい」
「君の世界のことを、もっと知りたい。聞かせてくれないか?」
まっすぐな視線に、胸がきゅっと締めつけられる。
誰かに「知りたい」と思われることが、こんなにも嬉しいなんて。
「あたしも……レオン王子には、話を聞いていただきたいと思っていました」
過去の辛い記憶を言葉にするたびに、胸の奥にしまっていたものがほどけていく。
苦しいはずの話なのに、不思議と涙は出なかった。
隣にいる人が、受け止めてくれているとわかるから。
それだけで救われるなんて……。
「そんな過去があったのか……。辛い話をさせてしまったな」
「いえ……もう過ぎたことですから」
微笑もうとする。
全部が吹っ切れたわけではない。
それでも、前は向けている。
「今は、この世界で新しい未来を生きたいと思っています」
「ああ……ミオのそばには私がいる。もう君は一人じゃない」
その言葉に、息が止まる。
特別な意味を含んでいるように聞こえてしまう。
期待してしまいそうになる自分が怖い。
それでも――嬉しいと思ってしまった。
「ありがとうございます……」
視線を落としたまま、少しだけ彼の方へ身体が寄る。
無意識の距離。
「あの……よかったら、王子の話も聞かせていただけませんか?」
「そうだな……君には話してもいいのかもしれない。私の過去を――」
レオン王子には、婚約者がいる。
その事実を聞いた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
理由を考えたくなくて、あたしは気づかないふりをする。
それは政治的なものだった。
王族として定められた役割。
彼の両親である国王と王妃の意向でもあるという。
淡々と語る声の奥に、わずかな寂しさが滲んでいた。
その横顔を見ていると、胸が締めつけられる。
ただの同情ではない気がしてしまう。
本を語るときの彼の表情は、どこか柔らかい。
それは――あたしと少し似ている。
現実から少し離れたかっただけなのかもしれない。
だからこんなにも、放っておけないと思ってしまう。
ぱち、と焚き火が弾ける。
その音をきっかけに、会話が途切れた。
気づけば、距離がさらに近くなっている。
「あ、あの……」
言葉が出ない。
視線を上げた瞬間、目が合った。
逸らせない。
レオン王子が、ゆっくりと手を伸ばす。
息が止まる。
――触れられる。
そう思った瞬間。
「……何をしている」
低い声が背後から落ちた。
肩が跳ねる。
振り返ると、そこに立っていたのはカイル団長だった。
いつから見ていたのかはわからない。
ただ、その視線には張り詰めたものがあった。
冷たいだけではない。
何かを押し殺しているような気配。
「別に、何もしていない」
レオン王子が静かに返す。
だが、その声はわずかに硬い。
さっきまでとは違う空気。
二人の間に見えない緊張が走る。
「……そうか」
短い返事。
それだけで空気がさらに張り詰めた。
息が詰まりそうになる。
あたしは何も言えなかった。
さっきまでの熱が、すべて消えてしまったみたいに感じる。
それなのに――胸の奥だけが落ち着かない。
どうして。
カイル団長が、こちらを見る。
一瞬だけ視線が合う。
責めているわけでも、怒っているわけでもない。
それなのに、なぜか目を逸らしてしまった。
心臓がうるさい。
理由はわからないのに。
カイル団長もすぐに視線を外した。
何かを堪えるように、一瞬だけ目を伏せて。
その仕草が、妙に引っかかった。
「明日は早い。休め」
それだけ言って背を向ける。
「……あの」
気づけば声が出ていた。
自分でも驚くほど自然に。
だが、彼は振り返らない。
そのまま夜の闇へと消えていく。
伸ばしかけた手が宙で止まる。
……どうして呼び止めたのだろう。
わからない。
けれど胸の奥に、小さな棘のような違和感が残ったまま消えなかった。




