10話『二度と同じ過ちは繰り返さない』
「どうして……」
震える声が漏れた。
胸の奥でずっと膨らみ続けていた不安が、最悪の形で現実になってしまう。
「どうして、カイルが辺境へ行かなきゃいけないの……」
王命だった。
辺境で拡大する魔物被害への対応として、カイルが現地防衛の総責任者に任命されたのだ。
誰にも逆らえない。
王国のためだと言われてしまえば、なおさらだった。
「それは、俺がレオン王の臣下だからだ……」
カイルは静かに笑った。
けれど、その笑顔はあまりにも穏やかで。
あまりにも優しくて。
だからこそ胸が痛かった。
どうしてそんな顔ができるの。
寂しくないの。
怖くないの。
あたしはこんなにも苦しいのに――
喉元まで込み上げた言葉は、結局一つも口にはできなかった。
「願わくば、澪の幸せは――いや……」
カイルは一瞬だけ目を伏せる。
まるで何かを飲み込むように。
そして小さく息を吐いた。
「澪は、きっと立派な王妃になれる。俺は遠い辺境の地で、この王国の平和を祈り守るよ」
「カイル……あたしは――」
言いたいことがあった。
本当は、ずっと前から……
でも、その一言は、どうしても言えなかった。
もし口にしてしまえば。
きっと、この人は困ってしまう。
優しい人だから。
責任感の強い人だから。
もっと苦しめてしまう。
だから言えない。
言ってはいけない。
「――それ以上は言うな。俺の決心が鈍る……」
低く掠れた声だった。
その一言だけで胸が強く締めつけられる。
ああ……
この人も同じなんだ。
平気なわけがない。
辛くないわけがない。
それでも王国のために行こうとしている。
「わかりました……」
唇を噛みしめながら俯く。
それでも。
このまま別れるなんて嫌だった。
「ですが、せめて最後に――あなたを抱き締めさせてください」
一瞬、カイルが目を見開く。
けれど次の瞬間には、どこか諦めたように優しく目を細めた。
「ああ……これが最後だ」
胸の奥がずきりと痛んだ。
まるで永遠の別れを告げられたみたいで。
息をするのも苦しくなる。
そっと抱き締めた身体は、驚くほど温かかった。
何度も助けてくれた腕。
何度も安心をくれた背中。
苦しい時も、不安な時も。
振り返れば、いつだってそこにいてくれた人。
その温もりに触れた瞬間――
胸の奥に押し込めていた感情が、一気に溢れ出した。
離れたくない。
行かないでほしい。
ずっとそばにいてほしい。
そんな願いばかりが膨らんでいく。
だけど、その想いが強くなるほど罪悪感も増していっていた。
あたしはレオン王の恋人であり婚約者だ。
本来なら、こんなふうに別の男性の温もりにすがってはいけない。
――元々、失われるはずだった命。
だからこそ。
あたし自身の未来よりも、大切な人たちに幸せでいてほしかった。
あたしが二人の仲を裂く存在になってはいけない。
そう思っているはずなのに……
どうして涙は止まってくれないのだろう――
どうして、この人を失いたくないと思ってしまうのだろう。
頬を伝った涙が、カイルの胸元を静かに濡らしていく。
カイルは何も言わなかった。
ただ黙って、その涙を受け止めてくれる。
その優しさが嬉しくて。
その優しさが苦しくて。
ますます泣いてしまう。
今だけは――
この温もりを、忘れたくなかった……
そして、この時――
少し離れた場所から、その光景を見つめる視線があったことに。
あたしは気づいていなかった。
◇
一年後――
「カイル辺境伯、ミオ様のことで残念なご報告が……」
「……なんだ?」
報告を聞く前から、胸の奥が妙にざわついていた。
嫌な予感がする。
理由などない。
それなのに、心だけが警鐘を鳴らしていた。
「レオン陛下が、ミオ様を王宮の自室から出さないよう命じているとのことです。実質的な軟禁状態かと……」
「――なに?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
澪が軟禁されている?
あの陛下が?
信じられない。
信じたくなかった。
あの人は誰よりも澪を大切にしていたはずだ。
澪もまた、レオン陛下を信じていた。
だからこそ一年前、俺は……
想いを胸の奥へ押し込み、それぞれの道を選んだのだ――
「……情報は確かなのか」
「複数の証言がございます」
「そんなことが――」
胸の奥が重く沈む。
もし本当なら……
澪は、この一年をどんな気持ちで過ごしてきたのだろうか。
知らない世界へ来て。
家族も友人もいない場所で。
ようやく手にした居場所だと思っていたはずなのに。
もし、その居場所さえ失っているのだとしたら――
「たった一人で……」
思わず拳を握り締める。
あの時の澪を思い出す。
無理に笑っていた顔。
泣きそうなのに、最後まで誰かの幸せを願っていた姿――
あんな優しい人間が、一人で苦しんでいるかもしれない。
そう考えただけで胸が締めつけられた。
あの日。
辺境へ向かわなければ。
あの日。
もう少しだけ自分勝手になれていたら。
そんな後悔が頭をよぎる。
だが今さら悔やんでも何も変わらない。
今、やるべきことは一つだ。
「……俺が直々に陛下へ確認する」
それだけ告げて席を立つ。
胸の奥でくすぶり続けていた感情が、再び激しく燃え始めていた。
どうか誤報であってほしい。
どうか澪が無事でいてくれ。
祈るような気持ちで、俺は王都へ馬を走らせた――
◇
「レオン陛下……澪はどこにいますか?」
王座に座る男を見た瞬間、俺は違和感を覚えた。
以前の陛下ではない。
雰囲気が違う。
目の色が違う。
まるで別人になってしまったかのようだった。
「――それは、カイル辺境伯が気にすることではありません」
冷たい声音だった。
かつて民を想い、澪を優しく見守っていた頃の王子の面影は見当たらない。
「そういうわけにはいきません」
自然と声に力が入る。
「元々、彼女はこの世界の住人ではないのです。この世界の理で縛るべきではありません。一度、澪と話をさせてください」
「ならぬ」
即答だった。
迷いすら感じられない。
「話はそれだけか?」
「陛下!!」
思わず声を荒げる。
だが王の瞳は微動だにしなかった。
何かがおかしい。
澪に何があった。
この一年で何が起きた。
なぜ、あれほど澪を大切にしていた人が、こんな目をする。
「それ以上の無礼は、カイル辺境伯といえども命に関わるぞ」
「……わが身などどうなっても構いません」
気づけば言葉が口をついていた。
それほどまでに胸騒ぎが消えない。
「案じているのは、この王国の未来と――」
そこで一度言葉を切る。
喉が苦しい。
胸が痛い。
それでも言わなければならなかった。
「その王国のために死力を尽くしてきた陛下と、澪のことだけです」
一瞬だけ。
王の瞳が揺れた気がした。
怒りとも苦悩ともつかない感情が垣間見える。
だが、それもすぐに消える。
「全てを忘れて国境へ戻れ」
冷酷な声だった。
「今まで忠義を尽くしてきたお前に、今の私が言えるのはそれだけだ」
それは王命だった。
臣下なら従うべき命令だ。
だが俺には確信があった。
陛下の身に何かが起きている。
そして。
このまま引き下がれば、澪の身にも取り返しのつかないことが起こる。
あの日、守れなかった後悔を。
澪が涙を隠して笑った姿を。
俺は今でも忘れられない。
だから――
二度と同じ過ちは繰り返さない。




