その感情の名は
「ちょ、ちょっと……!」
酒場を出て少しした、薄暗い裏通り。
人気のない路地裏まで半ば強制的に連れてこられ、私はようやく腰に回されていた手を振りほどいた。
無理やり連れてこられる道中、必死に身をよじって離れようとしていたため、私の息はすっかり乱れていた。
もう既に夜は更け、辺りは建物の壁に突き刺された松明の橙色の炎と、夜空の月だけが私たちを照らしている。天日干しレンガの深い陰影が、彼を余計にミステリアスな雰囲気に包み込んでいた。
「急に連れてきてすまないね」
「な、何するんですか!? 私はまだ、あの酒場にいたかったんですけど!」
「あれ、そうなのかい? あんな野蛮なところに君のような美しい女性が間違って迷い込んでいるのかと思ったよ。それは悪いことをしたかな」
「というか……そもそもなんでこんな人気の無い所に……っ」
ここは今日着いたばかりの見知らぬ大都市だ。
急にこんな狭い裏路地に連れ込まれて、平気なわけがない。私だって立派な大人の女性のつもりだ。
相手にその気がなくとも、どうしても不安と恐怖が勝ってしまう。名前も素性も知らない、色黒の男に激昂しながらも、私の心臓は早鐘を打っていた。大体、急にいなくなったらオーナーだって心配しているだろう。
「それは僕の事情だから、そんなに警戒しないでほしいな。それより……」
彼はゆったりとした足取りで、一度離れた距離を再び詰めてくる。
今すぐ踵を返して逃げることも出来たはずなのに、私の足はレンガの床に縫い付けられたように動けなかった。
暗がりの中で彼が一歩ずつ歩を進めてくるたび、松明の炎に揺らめくその顔から目が離せない。恐怖以上に、胸の奥で正体不明の何かが膨れ上がっていくのを感じる。
彼は、私の目の前でぴたりと立ち止まった。
「そんなに怯えないでおくれ。僕はただ――君が気になるんだ。君のことを、もっと知りたい」
「へ……ふへっ!?」
情けない声が口をついて出た。
あまりにも真っ直ぐで直接的な好意をぶつけられ、顔がカッと沸騰するように熱くなる。
な、何を言っているんだ、この人は。本当にたった今、酒場で一瞬目が合ったばかりの男性だ。大都市の人間は、みんなこんな風に境界線を飛び越えてくるのが当たり前なのだろうか。
ダンサーとしてステージに立ったとき、客席から「可愛い」とか「愛している」といった熱狂的な歓声をもらうことは何度もあった。けれどそれは、きらびやかな衣装を纏い、脚光を浴びて完璧に演じている『踊り子としての私』を見ているに過ぎない。
だからこそ、舞台を降りた、黒いローブに身を隠した「ただの素の自分」に対して真っ向から熱い賛辞を向けられることに、私には何の免疫もなかった。
「おや、そんなに驚くことかい? 確かにその、砂漠には珍しい異国情緒溢れる薄ピンクの髪色は目を引くけれど、それを差し引いたって、きめ細やかな肌に、吸い込まれそうな美しい瞳。柔らかそうな唇と、あどけなさが残る可愛らしくも気品のある顔立ち……君の立ち振る舞いや所作からは育ちの良さや人格者であることが窺い知れるよ」
「え……ほぇ……」
そんな状態の私に浴びせる言葉は刺激的すぎた。
淀みなく紡がれる極上の賛辞の数々が、本当に自分のことを指しているのか、脳の理解が追いつかない。
「むしろ、君の周りの男たちがこれまで何をしていたのか不思議でならないよ。それとも君が高嶺の花すぎて、誰も手を出せなかったのかな。……どちらにせよ、これは運命だ。もしまだ時間があるなら、僕と一緒にこの街を回らないかい?」
ここまでストレートに、存在を全肯定してくれる男性を、無下に撥ね退けられる女性が世の中にいるだろうか。
私はその熱い言葉だけでなく、彼の裏表のないまっすぐな振る舞い、そしてどこか掴みどころのない超然とした雰囲気に、心のどこかで強く惹かれ始めていた。
「それは、その……」
断ることなんて簡単だったはずなのに。
自然と彼の誘いに応えようと口を開きかけた、その時。
不意に、静まり返った路地に不穏な足音が響き渡った。粗末な革鎧をまとい、青銅の武器を手にしたガタイの良い男たちが数人、獲物を囲むように私たちの周囲を取り囲む。
「「!?」」
この色黒の男の仲間だろうか――一瞬そう疑ったが、すぐに私はその考えを激しく恥じた。
囲んできた男たちの顔ぶれに見覚えがあったからだ。先ほど酒場でのギャンブルで、アムラートにこっぴどく負かされていた連中だった。
酒場で見せた、全席へのおごりの気前の良さ。そして、今の率直な気持ちをストレートに伝えるまっすぐさ。
そんな彼が、こんな下劣な闇討ちなど仕掛けるはずがないと、私は出会って数十分の彼に対して、不思議なほどの信頼を抱いていた。
男たちがじりじりと武器を構えて距離を詰めてくる中、先ほどカードでボロ負けしたボスらしき男が、手下たちの後ろからにやにやと下品な笑みを浮かべて姿を現した。
「ヨォ、さっきはよくもこの俺様に大恥をかかせてくれたなぁ、あんちゃん」
怯えて思わず身を固くした私の肩を、彼の手がそっと引き寄せた。私はまたもや心臓が跳ねるが、当の本人はこんな絶体絶命の状況だというのに焦る様子は微塵もなく、むしろこの状況を楽しんでいるような余裕さえ感じさせた。
「恥? さっきのカードかい? あれは勝手に君が熱くなって、自滅していっただけじゃないか」
「なんだと……!」
ボス男の顔が怒りで怒張していく。相変わらず、感情が顔に出やすい人だ。
「だって考えてごらんよ。別に僕は君にゲームを強制したわけじゃない。傷口が広がる前に降りていれば、君の言う『恥』とやらもかかずに済んだんじゃないかな?」
「て、ててめぇ……いい加減にしやがれ!」
親分が腰の三日月刀を荒々しく引き抜くと、それに呼応して手下たちも一斉に刃物を抜いた。
「よく見りゃあ、てめぇの身なりは上等だ。身ぐるみ剥いで殺した後、金目のモンをゆっくりと品定めさせてもらうわ。……それに、そこの女も、中々の極上品じゃねぇか。そんなヒョロガリ放っておいて、俺たちと遊ぼうぜ? 裏の奴隷市場に流しゃあ、いい値がつきそうだ」
「お頭、その前に俺たちに味見させてくださいよぉ!」
下品な笑い声をあげながら、男たちは私をねめつけるように、いやらしい目つきで値踏みしてきた。
確かにダンスのステージ衣装で肌を露出することは多いが、こんな風に暴力的な視線でさらされたことはない。
今までに感じたことがない悪寒と嫌悪感に身体がすくむ。けれど、か弱い私には、この暴力を前に抗う術などない。私は色黒の男の腕の中で身を縮め、ただ震えることしかできなかった。
すると、私の体を抱きしめる彼の腕に、ぐっと強い力がこもる。
「ちょっとだけ、僕にしっかり捕まっていておくれよ」
「えっ…」
次の瞬間、ふわりと身体が虚空に浮いた。
驚く暇もなく、彼は私を軽々と横抱きにしたまま、日干しレンガの壁を強く蹴って、驚異的な跳躍力で真上へと飛び上がったのだ。
着地したのは、建物と建物の間に渡された、洗濯物を干すための太いロープの上だった。
「ひゃあっ!?」と思わず彼の首にしがみつく。
細いロープの上を、まるで平地を歩くかのようにひょいひょいと跳ね、あっという間に三階建ての建物の屋上へと上り詰めてしまった。
彼は私を腕に抱いたまま、迷うことなく次の建物の屋上へと飛び移っていく。彼が動くたび、ルージュのコートにあしらわれた金の細工や装飾品がチャラチャラと軽快な音を生み出し、月の光を反射させてきらめいていた。
背後で風がうねり、夜の冷気が肌を撫でる。地上からは、完全に獲物を見失った男たちの「どこへ消えた!?」「上だ、屋根の上を見ろ!」という怒号が遠く響いていたが、それすら心地よいBGMであるかのように、彼は楽しげに鼻歌を交じりで屋根伝いに跳躍を繰り返す。
屋上同士の間隔は狭く、移動は容易に見えるが……それは身軽な大人の足での話だ。何よりこの男は、私という人間を一人抱えながら、息一つ乱さずにそれを平然とやってのけている。
彼は私を地面に降ろす様子もなく、腕の中の私を見つめて悪戯っぽく微笑んだ。
「このまま、あのオアシスの湖まで行こうか。あそこなら、誰にも邪魔されずに君とじっくり話せそうだ」
「こ、怖いです……っ! お願いですから降ろしてください!」
必死に彼の首にしがみつきながら叫ぶ。
「おや、ここで降ろしたら君はあの野蛮な男たちのところへ逆戻りだよ? それとも、僕の腕の中はそんなに居心地が悪いのかい?」
着地の衝撃を完全に殺すしなやかな膝のクッション。男は私を見下ろし、確信犯的な笑みを浮かべた。
月光に照らされた彼の横顔は、彫刻のように整っていて、至近距離で見る切れ長の赤い瞳に吸い込まれそうになる。上質なコート越しに伝わる彼の胸板は驚くほど熱く、たくましく、微かに香る高価な香油の甘い匂いが私の理性を狂わせそうだった。
「居心地が悪いじゃなくて……! なんでそんなに平気なんですか!? 」
「これくらい、なんてことはないさ。君があまりにも羽毛のように軽いからね」
どうやら彼に私を降ろす気はないようだ。
私は降伏の溜め息をつき、彼の腕の中で、おとなしく身を委ねるしかなかった。
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最後の大きな跳躍の後、彼の足が柔らかな砂の感触を捉えた。私を抱きかかえているとは思えないほどの静かな着地で、砂埃もほとんど起きていない。
建物の建ち並ぶ狂騒のエリアを、完全に抜け出したのだ。
「はい、お待たせ。足元に気をつけてね」
「……ありがとう、ございます」
そっと地面に降ろされ、よろめく足をなんとか踏みしめて周囲を見渡す。――そこには、息をのむほど美しい光景が広がっていた。
街の狂騒から完全に隔絶された、静謐で広大なオアシスの湖。
風が止んだ水面は、まるで巨大な黒い鏡のように満天の星々と真ん丸な月をその懐に映し出している。湖畔に佇むヤシの葉が、夜風にさらさらと擦れ合い、まるで秘密の歓迎を囁き合っているかのようだ。
壁一枚の向こう側では豊穣祭を待つ都市の灯りがまたたいているが、ここでは耳を澄ませば、人工的な音は一切届かない。ただ、さらさらと砂が流れる音と、微かな水のせせらぎしか聞こえなかった。
湖のほとりでは、カメや美しい水鳥たちがその心地よさに目を細め、今はただ静かに身体を休めている。ヤシの木の幹には、大きな蝶の蛹がひっそりと佇んでおり、今まさに殻を割って、小さくも艶やかな羽を伸ばそうとその身を震わせていた。
「……綺麗……」
おのずと、感嘆の息が漏れた。この世の静寂と美しさのすべてを集めたような光景が、私の瞳を優しく満たしていく。何度か興行で様々な町やオアシスへ赴いたが、これほどまでに清らかな景色は、生まれて初めて目にするものだった。
旅の疲れも、さっきの男たちに対する恐怖も、この圧倒的な自然の美しさを前にして、すうっと夜の闇へ溶けていいき、心が洗われていくようだった。
目を輝かせていた私の隣に立っていた彼は、コートを脱ぎ、それを優雅に翻しながら、湖畔の白い砂の上に腰を下ろした。そして、自分のすぐ隣のスペースをぽんぽんと手で叩き、私に視線を送る。
「……あ、あの。助けていただいたことには、その、心から感謝します。でも、やっぱりおかしいです!」
「おかしい? 何がかな?」
彼と少し距離を取るようにして、私はおずおずと、しかし警戒を崩さないままマントの端へと腰を下ろした。お互いの距離は、人間の身体一つ分ほど空いている。
彼はそんな私のぶっきらぼうな態度を気にする風でもなく、私から目を離さないまま、心の底から不思議そうに首を傾げた。
「それは……急に酒場から連れ出したり、こんなところに連れてきたりですよ! ……そもそもあなた、誰なんですか!?」
私は黒いローブのフードを今更ながらに深く被り直し、視線を遮るようにして彼を問い詰めた。いくらムードが良くて、顔が良くて、紳士的で、ストレートに自分を褒めてくれたからといって……このまま流されていいわけがない。
私の反論に、彼はくすくすと低く笑った。その声の響きさえ、夜の静寂に心地よく溶け込んでいく。
酒場で一瞬、視線が交差したあの瞬間。
私はどこか彼に惹かれていたのかもしれない。
そして、それはもしかしたら、彼にとっても同じだったのだろうか。
…もしそうだったら、嬉しい、かもしれない。
彼は膝を立て、湖面に映る月を見つめながら、独り言のようにつぶやいた。
「君は『愛と舞の女神』という逸話を知っているかい?」
「……え?」
不意に飛び出した言葉に、思考が微かにフリーズする。
それは確か、少し前にオーナーが私に教えてくれたお伽話だった。
…正確には二度目らしかったが。
「あれの元となった湖は、実はこの湖らしいんだ。知ってたかい?」
彼はゆっくりと視線を私へと戻した。その切れ長の赤い瞳は、まるで世界にたった一つの宝物を見つけた子供のように、ドラマチックな輝きを湛えている。
「……いえ、知りませんでした」
「僕もここに来るのは初めてでね。実際にその光景を自分の目で見られて光栄だ。……しかも、君のような綺麗な人と見られるなんて…今日、君とこうして同じ時間を過ごせたのは本当に運命だったのかもしれないよ」
「……っ」
「正確には、この湖の反対側に位置する国側の伝承らしいのだけれど……」
彼はその伝説の厳密な出所を付け加えるが、私にとっては正直もうどうでもよかった。
飄々としているところがありながら、自身の意思は嘘偽りなく伝えてくれる。
演技でも、ただのからかいでもない。
心の底からの情熱が、その深い赤の中にまっすぐに揺らめいている。
彼以外に同じような言葉を囁かれても、私の胸がこんなにも激しく高鳴ることはなかっただろう。
彼でなければ、こんなに胸が締め付けられるように、苦しむこともなかっただろう。
他の誰でもない、『彼』からの言葉だからこそ、私の心はここまで揺さぶられているのだろう。
じり、と彼が白い砂を鳴らして、距離を詰めてくる。
私に、逃げる意思はなかった。いや、逃げるための足が、どうしても動いてくれないのだ。
私の身体はもはや、理性の意思では動いてくれなかった。ただ、彼を求める私の心に、ひたすらに従っているようだった。
ただ、自分の中で溢れて止まらない、この熱い気持ちの正体を確かめたかった。
これは、素性も名前も知らない男に対する、至極真っ当な恐怖なのか。
それとも、これまでずっと知らずにいた、私自身の心が呼び覚まされた歓喜なのか。
未知の感情が、あのヤシの木の幹にある蛹のように内側から膨れ上がり、鮮やかな蝶として世界へ舞い上がる瞬間をじっと待っている。
私は逃げることもせず、ただ、真っ直ぐに彼を待っていた。
彼は私の隣、お互いの肩が微かに触れ合うほどの至近距離で動きを止めた。
月明かりに照らされて、より一層鮮明に映し出される彼の端正な輪郭。その長い睫毛の陰影までもが、月の光に白く浮かび上がっている。
それよりも、あの夜の太陽のように妖しく、けれど慈愛に満ちた瞳に、魂ごと吸い込まれそうな錯覚さえ覚える。
「あ……」
緊張で固まった私の頭へと、彼の細く長い指先が伸びた。
彼が何をするのか、本能的に理解する。
深くかぶっていたフードの縁に指をかけ、壊れ物を扱うかのようにゆっくりと、優しく後ろへと払う。
私は気恥ずかしさと高鳴る鼓動に耐えかねて、反射的にきゅっと目を瞑ってしまった。
肌をなでる夜風の冷たさと同時に、後ろに結っていた薄ピンクの髪がはらりと肩に揺れる。自分の素顔が、月光の下に完全に晒されたのがわかった。
「……」
張り詰めた静寂の中、秒針のない時間が永遠のように引き延ばされる。
私はゆっくりと、恐る恐る瞼を開いた。
フードが外れた私を、彼はこれまで以上にまっすぐに見つめていた。その深い赤色の瞳には、月の光を反射して、困ったように優しく笑う彼の顔と、赤面して唇を震わせている私の姿が、小さな鏡のように克明に映り込んでいる。
心臓の鼓動が、全身の骨に響くほど激しく高鳴っていた。ステージ上で何百人もの観客を前に、『踊り子』として激しいダンスを踊り終えた時でさえ、こんなに胸が苦しくなるような動悸は知らない。
今彼の目の前に座り込んでいるのは、衣装や役柄で飾られた私ではなく、素の、一人の人間としての私なのだ。
彼はふっと愛おしげにはにかむと、片手を伸ばし、私の頬を包み込んだ。
手のひらは、男らしく少し武骨で、けれど驚くほど温かく、そして優しかった。慈しむように親指の腹で私の肌をなぞる。その一瞬の触れ合いだけで、身体の芯が痺れるような感覚が走り抜けた。
「……ぁ……ぅん」
こそばゆさと、破裂しそうなほどの羞恥心。
自分のものとは思えないほど熱を帯びた、かすかな嬌声が、静かなこの湖畔の水面へと、溶けるように消えてゆく。少し触れられただけで身悶えてしまう。
彼はそのまま手を離すことなく、指先を滑らせるようにして私の首元へ、そして私が身につけている幾重ものアクセサリーへと手を這わせていった。金属が擦れ合い、微かな鈴の音が夜のオアシスに清らかに響く。
(……あったかい……)
自分のものより一回りは大きく、確かな質量を持った彼の手に、私は抗うことも忘れて、そっと自分の手を重ねた。
だが、私はこれ以上先の世界を知らない。
……正直に言って、最初から何も知らないし、わからない世界だらけだけど。
(私、今どんな顔、してるんだろう…)
これまで私は、ただオーナーの一座で踊ることだけが生のすべてだった。
誰かにこうして、一人の女性として抱きしめられる重みも、その意味も、何一つ教わってはこなかった。
――だから。
私は再び、ゆっくりと目を瞑る。
お伽話の女神のように、私もこの人と、この世界と、本当の意味で繋がることができるのだろうか。
私のこの、胸の奥で今まさに生まれようとしている情熱の正体を確かめたかった。
すっと、力強く、けれどどこまでも愛おしげに、私の身体が彼の方へと引き寄せられた。
ルージュのコートの滑らかな布地が私の肌に触れ、彼のまとっている上質な香油の匂いが、私の意識を白く塗りつぶしていく。その抗えない優美な流れに、私はただ、身も心も預けるしかなかった。
静密なオアシスの中心で、世界のすべてが消え去ったかのような静寂の中。
私の震える唇に、彼の熱い唇が重なった。
――これが、恋なのかな。
重なる彼の心地よい温度を肌で感じながら、アンフリーは、胸の奥でそっとひとりごちた。




