第5話 顕現
まだ夜明け前――。
バルストは、薄暗い室内で静かに旅支度を整えていた。
剣。
革鎧。
使い込まれた外套。
その背には、年齢では隠しきれない疲労が滲んでいる。
それでも――。
眠る娘の顔を見つめた瞬間だけ、
バルストは優しく目を細めた。
――そして、音を立てぬよう家を出た。
これから向かうのは、ノモナーガ王国にあるノスガルドという街。
そこにある冒険者ギルド。
一日の道のりを馬車で揺られ、大規模な魔物討伐に参加する予定だ。
帰宅は、一週間後。
バルストの背は、朝靄の中へと消えていった。
数時間後――陽が昇る。
「おはよう、お母さん。お父さんはもう出かけちゃったのね」
朝食の席で、ルティーナが言う。
「それよりルナ……もう外出の準備してるのね?」
アンナは呆れたように笑った。
だがその視線は、ルティーナの首元へ――。
しっかりと『ヒーリング・ストーン』が下げられているのを確認し、ほんの少し安心したように頷く。
「いい? 夕方までには必ず帰ってくるのよ」
「う、うん……」
わずかに視線を逸らすルティーナ。
(さすが、お母さん……勘がいいな)
「(うるさいわね……)」
小さく頬を膨らませながら、ルティーナは弁当を受け取り、家を出た。
歩くこと、およそ一時間。
辿り着いたのは、人影ひとつない広大な草原だった。
だが――
「はぁ……はぁ……つ、疲れた……」
その場に大の字で倒れ込む。
(無理させたな、すまん)
「ほんとよ……でも、ここまで来たら安心でしょ?」
そう。
ここまで来た理由はただ一つ。
ルティーナは周囲を見回した。
誰もいない。
草原を渡る風の音だけ。
「……よし」
その瞳が、わずかに輝く。
――能力の検証。
もし本当に、自分達の意思で扱えるなら――。
「さぁ始めましょ! マコト」
まずは、地面に手を当てる。
(イメージするぞ……『水』)
すると――。
彼女の手を通して、地面に浮かび上がる漢字。
【水】
(やっぱり、触れた場所に転写されるな)
しかし――
そのまま手をつけ続けていると、文字が徐々に肥大化し始めた。
「ちょっ……どんどんでかくなってない!?」
慌てて手を離すルティーナ。
気づけば、二メートル近い巨大な【水】が刻まれていた。
(接触時間でサイズが変わるのか……危なかったな)
「やってみないと分からないこともあるのね……」
もしあのまま続けていたら――
想像するだけで、背筋が寒くなる。
「で、これ……どうやったら水が噴き出すの?」
(う~ん……どうするか)
「え~行き当たりばったりなの?」
とりあえず距離を取り、漢字を観察する。
だが自然発動する気配はない。
そこで、馬琴は試しに声を上げる。
(発動! 出ろ! ウォーター! ……いや違うか?)
「なにそれ……」
(じゃあ……覚醒! 開放! 顕現! 爆ぜろ! レリーズっ……)
「何、意味わかんないんだけど……あの時、そんな事言ってた?」
だんだんと暴走するワードセンス。
(くっ……語彙力が足りん……)
「……他に何か、ひらめかないの?」
(ひらめき……どうしたら――)
――その時。
ドバァァァァァ!!
「きゃあああああああ!?」
突如、水が勢いよく噴き出した。
(出たぁぁぁぁ!? なんでだ?)
「やったじゃない! ……で、どうやって止めたの?」
(知らんっ!!)
「はぁ?」
今度は水が止まらない。
どんどん溢れ、小さな池のようになっていく。
「ちょっとヤバくない? このままだと――」
(落ち着け! な、何か……止める方法が)
「早くしなさいよ!」
(黙ってて! 意識が乱れ――)
――その瞬間。
ピタリ。
水が止まった。
「……え?」
(止まった……?)
違和感。
馬琴は思考を巡らせる。
何を『言った』かではない。
(……そうだ! 隠し言葉かもしれない!)
「隠し言葉?」
文章の中に潜む、別の意味。
(俺は確か――)
馬琴の脳裏に、先ほど口にした言葉が浮かぶ。
『ひらめき……どうしたら』
『俺ってて! 意識』
(そうか!)
隠されていた言葉。
【き・ど・う 起動】
【て・い・し 停止】
(……これだ! 俺は文字を口にしている!)
馬琴の疑問は確信に変わる。
再び地面に手を当てるように指示をする。
【水】
(――『起動』)
ドバァァァァァ!!
水が噴き出す。
(次は――『停止』)
ピタリ。
止まる。
(やはりな!)
ルティーナの目が輝く。
「すごい……!」
(他の『漢字』もできるかもしれん)
「やろうやろう!」
その後、二人は夢中になった。
地面に様々な漢字を描き、試す。
気づけば空は、茜色に染まっていた。
(やばい、帰らないと怒られるぞ)
「夢中になりすぎちゃったね」
(そうだ、最後に一つ試したいんだが)
「時間がないってば!」
(いいから、鎖骨あたりに手を当ててみてくれ)
言われるままに手を当てる。
【翼】
(『起動』)
――次の瞬間。
ルティーナの背中から、
白銀の羽が静かに広がった。
淡く輝く羽根。
夕陽を受けて、
それは神々しいほど美しく煌めく。
「えっ……!?」
風が頬を撫でる。
ふわり、と。
身体が宙へ浮かび上がった。
「と、飛んでる……私!?」
(成功だな……だが)
「やっぱり、私が翼を動かさないと落ちちゃうの?」
(羽ばたきの制御は難しそうだな)
それでも――
ルティーナは、不格好ながらも空を進む。
「これ……慣れたら速いかも」
(ああ、移動手段としては優秀だな)
「明日、これ練習したい!」
(決まりだな)
こうしてルティーナは、無事に帰宅した。
アンナに叱られることもなく、夕食の時間を迎える。
そして夕食。
「ルナ……ちょっといい?」
「あなたの服、首元が緩くなってない?」
アンナが首を傾げる。
「え、え~と……気のせいじゃない? あははは」
乾いた笑い。
(……そういえば)
(あの池、どうしたっけ?)
「(それよりマコト……)」
(ん?)
「(背中、めちゃくちゃ痛いんだけど)」
(あ~……筋肉痛だな)
「(最悪……)」
(若い証拠だろ)
「(うるさい!)」
能力は、確かに『起動』した。
だが、それはまだ入口に過ぎない。
世界に存在しないはずの文字。
それが――
世界の理を塗り替える力になるなど。
まだ、誰も知らない。
その力が、
救いになるのか。
災厄になるのかさえも――。




