937話
3月1日
健人は騎手免許の交付を受けて、晴れて騎手の道を歩き出した。
「健人」
「え? あ、雄太兄ち……じゃなくて、雄太さん」
いつもの癖が出てしまった健人は両手でバシッと両頬を叩いた。
その様子がまだ慣れていないのが分かり雄太は小さく笑った。
「落ち着いていけよ。慌てる必要はないからな?」
「はい」
まだまだ垢抜けない幼い顔立ちだが、騎手としてレースに出るならば子供だからと手加減はされない。
「お前がいくら優秀な成績で卒業したとしても、これからはプロなんだ。分かったな?」
「はい」
「自信は持って良い。ただ、自信過剰になるな。周りは経験値を積んだ先輩だ。しっかり周りを見て、声を出して行けよ?」
「はい」
健人が出る4Rには雄太も出る。他の新人達がいる手前、健人だけを優遇してアドバイスをする訳にはいかない。
雄太は出るレース毎にアドバイスをしていた。もちろん、同じく阪神にいる純也もだ。
キリッとした顔で声をかけていた。
(毎年、この時期になると俺も先輩になったんだなって思うよな)
デビューする新米騎手の緊張感をヒシヒシと感じる。
(俺は雄太って頼りになる奴のおかげで吐きそうなぐらいの緊張はしなくて済んだけどな)
そんな事を思いながら4Rレースをモニターで見ていた。
健人は一生懸命に頑張ってはいたが掲示板にすら載れなくてガチ凹みをしていた。
(何が……悪かったんだろ……。追い出しのタイミングが悪かった……? コースの選択を間違えた……? スタートが悪かった……?)
自信はあった。緊張感はあったが、ガチガチに固まっていた訳じゃなかった。
一人で考えていても答えは出ない。
(これが……プロの世界……。勝てなきゃ騎乗依頼は来なくなる……。駄目なところを改善しなきゃ)
健人は他のレースを必死で見ていた。
「健人、帰る準備は出来たか?」
「あ、はい」
「忘れ物すんなよ?」
「うるせ……。いえ、大丈夫です」
真面目な顔をしている雄太とは正反対で純也はニヤニヤと笑っている。
「ソル……。置いて帰るぞ……?」
「ゆうたん、冷たい事言わないで」
「やっぱ、置いて帰ろう」
「嘘っ! 冗談だからっ!」
純也は慌てて助手席に乗り込んだ。健人は後部座席に乗り込んで、小さく溜め息を吐いた。
阪神競馬場を出てから少しして、雄太はバックミラー越しに健人を見た。
「健人。初めてのレースはどうだった?」
「うん……」
「思ったように乗れなかった……か?」
「雄太兄ちゃん、分かるの?」
「俺だって、ソルだって初めてのレースは勝てなかったぞ?」
雄太も純也も初めてのレースを勝てると思っていて勝てなかった。
何度も何度も鈴掛や梅野に『甘い世界じゃない』と言われていたのを理解していても、やっぱり勝てない悔しさに健人のように凹んだ。
(あの時の俺がいる……)
17歳の頃の雄太とダブって見えた。
「雄太兄ちゃん、純也ぁ……」
「ん? 何だ?」
「お前、呼び捨てに戻ってるぞ? 気をつけないと、周りに人がいる時に言うなよ?」
「あ、っとぉ……。純也……さん」
雄太がつい吹き出した。
「雄太。笑い事じゃねぇからな? 俺は良くても、周囲から何やかんや言われんのは健人なんだぜ?」
「まぁな。健人、切り替え出来ないなら、普段から『さん』づけしろよ?」
「うん」
健人が深く頷いて、ゴホンと咳払いをした。
「雄太さん、純也……さん」
「何だ?」
「微妙な間があったのは気になるけど、聞いてやろう」
「俺、勝ちたいから悪いところがあったら教えてください」
真剣な顔をして質問をする健人に、雄太と純也は真摯に答えてやる。
健人はうんうんと頷きながら、雄太と純也の話を聞いていた。
(健人って、ソルと同じようにチャラいお調子者っぽいけど、競馬には真面目に取り組んでるんだよな。ちゃんと教えてやらないと。やれる後輩になって欲しいからな)
一生懸命に話してやっている純也もしっかりと先輩騎手としての顔も良いなと思った雄太だった。




