917話
11月に入り、雄太に香港での騎乗の打診があった。
「香港? 海外の騎乗なんだ?」
「ああ。ほら、天皇賞で先頭を走ってた馬がいたの覚えてるか?」
「うん。あの子に乗るの? 海外で? えっと……メイゲイルだっけ?」
「そう。まだ確定じゃないけどな」
前走のメイゲイルの鞍上とは替わる事になった。乗り替わりはするほうもされるほうも多少なりとも引っかかるものがある。
(またハーティの時と同じようにならないと良いな。メイゲイル、そこそこ人気のある馬だし)
ハーティへの乗り替わり以前も以後も何度も乗り替わりは経験しているが、ハーティの時のように荒れた事はない。
あの時だけが特別だと思うが、やはり警戒してしまうのだ。
(春香や子供達に何かあってからじゃ遅いからな)
ふと視線を感じ、そちらを見ると春香がジッと見詰めていた。
(この視線には覚えがあるなぁ……)
苦笑いを浮かべながら、春香の耳元に顔を寄せる。
「会いたい……とかか?」
「え?」
春香が目を真ん丸にした。
「ゲイルに会いたいんだろ? そんな顔してた」
「うう……。何でわかるかなぁ……」
「春香は顔に出やすいからな。特に馬関係だと」
ハーティの事があって以来、春香は雄太の騎乗馬に会いたいと言う事が殆どなくなっていた。
口にする事はなかったが、急なマッサージなどを頼まれてトレセンに出向いた時に、馬を見させてもらったりはしていた。
「江川調教師に訊いてみるよ」
「え? 良いの……?」
「江川調教師とは何度も顔を合わせてるだろ?」
「うん。調教師も所属の騎手のかたのマッサージさせてもらったりしてるし……」
メイゲイルに会いたいと思っているはずなのに、躊躇しているのが伝わってくる。
(俺がビクついてるのと同じで春香もやっぱり……。でも、そんな事を考えてて窮屈な思いをさせたくない……よな)
雄太は江川にお伺いをたてる事にした。
春香と話をした後、雄太は地下のコレクションルームでメイゲイルのレースを見返していた。
(ん……。逃げ馬なんだよな……。その選択は間違ってないと思うけど……)
自分なりにレースの展開を想像してみる。
スタートからの走るコース取り、ペース配分など様々だ。
(んん……。俺なら……。けど、一回跨ってみたいな……。想像だけでは判断出来ないよな。馬は生き物なんだから)
何度も何度もメイゲイルのレース映像を見直して、次に騎乗する馬のレースを見返す。
(あぁ……。俺、ここスパートのタイミングミスってるな。前の馬につられた感じか……)
(ここ前が空くって思い込んでたよな……)
(この馬は逃げ馬だと思ってたけどスタートで出遅れて、ペースが遅かったから……)
その時、カチャリとドアの開く音がした。振り返ると凱央と悠助が顔を覗かせている。
「ん? どうした?」
「あのね。もう少ししたら、じょうばきょうしつに行くじかんなんだけど、パパいそがしい?」
凱央に言われて雄太は時計を見た。
「うわっ! もうこんな時間か。凱央、教えてくれてありがとうな」
雄太は慌てて椅子から立ち上がった。手にしていたDVDプレイヤーのリモコンを落としそうになり、アワアワと持ち直す。
「着替えたらリビングに行くからな。もう少し待っててくれるか?」
「うん、わかった。ゆーすけ、いこ」
「ウン。パーパ、マッテルネ」
二人はニコニコと笑ってドアを閉めた。
自室に入り着替えながら、雄太は自己嫌悪に襲われていた。
(俺って本当に競馬馬鹿だ……。何時間夢中になって映像チェックしてたんだよぉ……)
春香は雄太のレースの見返しなどは仕事だからと優先してくれるし、余程の事がない限り声をかけたりして中断させるような事はしない。
それは子供達も同じで、地下にこもった雄太は仕事中だと理解している。
(せっかくの休みなのに、悠助のお迎えにも行かなかった……。俊洋と美理愛と遊んでもやらなかった……)
落ち込みそうになる自分に叱咤激励しながら、騎手鷹羽雄太からパパ鷹羽雄太に気持ちを切り替えるのだった。




