883話
3月3日(月曜日)
(ん? あ……)
腹部の痛みに春香は目を覚ました。枕元の目覚まし時計を手に取って時間を確認すると、まだ午前三時を少し過ぎたところだ。
そっと腹に手を当てる。
(もう少し寝てても良かったのよ?)
小さく笑って、隣のベッドで眠っている俊洋を起こさないように、俊洋の隣で寝ている雄太の体を揺すりながら小さな声で起こす。
「雄太くん。雄太くん」
「ん……。ん? あ、もしかして来たか?」
「うん。準備するね」
春香はそっとベッドから下りて洗面所へ戻った。雄太は、俊洋が起きていないかと確認をしてからリビングに行き、子機を手に取り慎一郎宅に電話をした。
「あ、母さん。早い時間にごめん」
『春香さん陣痛来たのね。直ぐ行くわ』
「うん。頼むね」
理保は直ぐに状況を理解してくれて、雄太が子機を置いたと同時ぐらいに慎一郎宅のリビングに明かりが点いた。
洗面所から戻った春香は俊洋を起こさないように静かに素早く着替え、リビングに行く。
「母さんに電話したから。俺も身支度するよ」
「うん」
雄太がリビングを出て直ぐ、ウッドデッキのドアがノックされる。春香は鍵を開けた。
パジャマの上にカーディガンを羽織った理保が入ってくる。
「春香さん。陣痛はどんな感じ?」
「まだそんなに強くないです」
「そう。でも、四人目だといきなり強くなったりするのかしら。出産は早いって聞くけど」
理保は春香の手を引いてソファーに座らせる。
「人それぞれだっていう……う……」
キリキリと襲ってきた陣痛に春香の言葉が途切れた。理保は腰の辺りを擦ってくれる。
「はぁ……」
「まだ短いし、間隔もあるわね。ご実家と病院へは?」
リビングに戻ってきた雄太が財布と携帯電話をジャケットのポケットに押し込みながらキーケースを手にした。
「春香。少し車を暖めるから、その内に病院と東雲に電話しておいて。母さん、子供達を頼むな?」
「分かったわ」
雄太はそう言ってバッグを手に出て行った。
「雄太も慣れてきたのね。動きに無駄がないわ」
「はい。雄太くんは凄く頼りになります」
春香は笑って病院と東雲に電話をかけた。
「お義母さん。いってきます」
「ええ。後で病院に行くわね」
「はい」
理保はそっと春香を抱き締めた。
「子供達の事は心配しないで、赤ちゃんを無事に産む事だけを考えね」
「はい」
春香も優しい義母を抱き締めた。
「おじさん……」
「何だ?」
病院に着くと案の定、重幸が白衣をまとい立っていた。
早朝だから重幸がいるとは思っていなかったのに、さも当然と言わんばかりの顔をしていた。
「早朝だろうが、深夜だろうが俺はいるぞ」
「私は出産なのよ? おじさんの出番がないほうが良いんだからね?」
春香が呆れたように言うと、先に病院に到着していた直樹が呆れた顔で重幸を見ていた。
「春。言っても無駄だそ? もう、俺は諦めた」
「あはは……」
直樹と春香が笑っていると、重幸はドヤ顔で病室に向かって歩き出す。
苦笑いをしていた雄太と里美も春香達と共に病室に向かった。
早朝であっても産科の病室からは赤ちゃんの泣き声がしていたり、赤ちゃんを抱っこしてあやしている人がいたりする。
(母親って本当に大変だよな。赤ん坊はこっちの都合なんて関係なく生きる事に一生懸命なんだもんな)
雄太は隣を歩く春香をチラリと見る。
凱央と悠助と俊洋の母親となり、これからまた一人雄太の子供を産もうと頑張ってくれる春香に感謝しかなかった。
バッグを持つ手を変えて、春香の手を握る。
「ん? 今は大丈夫だよ?」
陣痛が来たと勘違いしたかと思ったのか春香が雄太を見上げた。
「分かってる。でも、手を繋いでたいなって思ったんだ」
「うん」
はにかんだように笑っている最愛の妻が、この先数時間後には痛みに耐えるような顔をし、命をかけて自分の子供を産んでくれるのだ。
(俺には代わってやれないからな。精一杯サポートしよう)
雄太は温かく小さな春香の手を優しくしっかりと握り締めながら決心を固めていた。




