1069話
12月6日(月曜日)
昼を過ぎた頃、鈴掛が雄太宅を訪れた。
「どうぞ」
「ありがとう、春香ちゃん」
春香はリビングのソファーに座った雄太と鈴掛の前にコーヒーを置いて、美理愛を連れてリビングを出ようとした。
「あ、春香ちゃん」
「はい?」
「時間があったらで良いんだけど、春香ちゃんも聞いて欲しいんだけど」
春香は頷いて美理愛を手招きして座った。
「ありがとう。雄太達には話したんだけど、俺な騎手を引退するんだ」
「い……ん……退……? 鈴掛さん、騎手……辞めちゃうんですか……?」
鈴掛は優しい笑顔を浮かべて頷いた。
「まだ体力も気力もある。けど……だからこそ、今の内に調教も自分で出来る調教師になろうと思ったんだよ」
「自分で……」
「全部自分でやるのは無理だけどな。それでもどんな馬でも良い部分を見つけて伸ばして、幸せな第二の馬生を歩ませてやれたらなって」
真剣な顔をして話す鈴掛の隣で雄太が深く頷いている。
「春香ちゃんには、ずっと施術してもらって来たから俺の口から伝えたいって思ったんだ」
「はい……」
鈴掛はポリポリと頭を掻いた。
「そんな顔しないでくれよ。今の家から引っ越す事もないし、会えなくなる訳でもないんだからな?」
「はい……。でも、もう鈴掛さんのレースを見られなくなるのが淋しくて……」
春香の声が小さく震えた。
知り合った頃から裏表がなく親戚のお兄さんのように思っていた鈴掛が引退という言葉を口にしたのだ。
(分かってる……。騎手はいつまでもやれる仕事じゃない……。いつか……雄太くんも……)
春香の淋しそうな顔を見て、美理愛は小さな手で春香の頭を撫でた。
「マー。イイコ、イイコ。ナカナイノヨ」
「え?」
美理愛の言葉に雄太と鈴掛の目が点となり、春香は大人びた美理愛を抱き締めた。
春香に抱き締められた美理愛は頬を膨らませた後、ムッとした顔で鈴掛のほうを見た。
「ヨシオジチャン。ワタチノマー、ナカセタラダメナノヨ。メッ!」
「え? えっ⁉ いや、違うぞ? 俺は泣かせた訳じゃなくて」
「アカネチャンニモ、メッシテモラウノヨ」
「愛香音にか?」
鈴掛に説教を始めた美理愛に、思いっきり雄太は吹き出した。
「雄太、笑い事じゃないぞ」
「す……すみません。つい」
謝ってはいるものの、雄太は笑いをとめる事が出来なかった。
美理愛よりほんの少し早く生まれた娘の愛香音を鈴掛は溺愛している。美理愛に愛香音に告げ口をすると言われてアワアワしてしまう。
「美理愛。由おじちゃんが意地悪した訳じゃないからね。愛香音ちゃんには何も言わなくても良いよ。分かった?」
「ン」
確かに鈴掛の言葉に動揺はした。だが、共にレースに出たりワイワイと食事をしたりして来た雄太達のほうが淋しいだろうなと春香は思った。
「まぁ、引退するのは早くて来年だから。調教師試験受かってからだしな。もし受からなかったら再来年とか……。受かってからの引退になるから」
「はい。怪我なく、鈴掛さんの納得出来るレースを頑張ってください」
春香の言葉に深く頷いた鈴掛は、最愛の妻の忍と溺愛する娘の愛香音が待つ家に戻って行った。
(鈴掛さんが調教師になったら、どんな馬を作っていくんだろう……)
雄太はダイニングの椅子をウッドデッキ側に置いて座り、子供達と飾り付けをしたクリスマスツリーを見ながらボンヤリと考えていた。
そして、チラリと慎一郎宅のほうに視線を向けた。
(父さんも鈴掛さんみたいな気持ちで引退決めたのかなぁ……。俺が引退するとしたら、衰えて衰えて騎乗依頼も来なくなった……かな?)
引退を考えるのはいつかなんて雄太自身にも分からない。
「雄太くん、まだ寝ないの?」
「あぁ〜。そろそろ寝ないとな」
冬時間だから調教開始は遅いが、そろそろ体を休めなきゃと椅子から立ち上がる。
「いつか雄太くんも騎手じゃなくなるんだよねぇ……」
「そりゃ八十歳とかになっても乗ってたら化け物か妖怪扱いされるだろ」
「八十歳で騎手してる雄太くんも格好良いと思うよ?」
ニッコリと笑う春香も八十歳でも可愛いんだろうなと思う雄太だった。




