1057話
週末に天皇賞を控えた月曜日の夕方。
雄太は乗馬教室へ行く前の時間に春香達を連れてトレセンへと向かって歩いていた。
「まさかとは思うけど、もうここから私は黙ってるね」
春香はトレセンの門の所でそう言うと、真顔になり口を閉ざした。
毎回毎回春香が居ると分かるとインポータントデイが前搔きをしまくり、雄太も春香も心配で堪らないからだ。
「皆も出来るだけ静かにな?」
子供達の声がすれば、インポータントデイは春香が居ると思ってしまうかも知れないと雄太は声をかけた。
返事をしようと思った子供達だが、口の前で人差し指を立てた雄太と春香のジェスチャーを真似をして黙った。
(凱央達が『静かに』っていうのを理解してるのは当たり前っちゃあ当たり前なんだけど、美理愛もちゃんと分かるようになったんだな)
末っ子であり初めての女の子の美理愛をついいつまでも幼い扱いをしてしまうが、もう三歳でありしっかりして来ている。
上に三人も居ると真似をしたりするからと、凱央が小さい頃よりとしっかりしていると雄太達が思っているだけでなく、慎一郎達や直樹達からも言われていた。
(俺、一人っ子だから甘えん坊だったのかな? あんまり自覚してなかったけど……)
雄太がそんな事を考えながら歩いていると根岸厩舎の建物が見えて来た。雄太はソーッと大仲に入り挨拶をして、当番の厩務員と馬房へ向かった。
「デイ」
馬房から顔を出していたインポータントデイに雄太が声をかけると、耳をピンッと立てた。その後、雄太のほうに視線を向け雄太の背後にいる春香を見て尻尾をブンブンと揺らせた。
「デイ。前搔きしちゃ駄目よ?」
春香の言葉に、インポータントデイは上げた前脚をピタリととめた。そして、ソっと脚を下ろして首をブンブンと上下に振っている。
「もう〜。ちょっと落ち着いて、ね?」
春香は馬房に入って手を伸ばした。待ってましたというように、インポータントデイは春香の手に鼻面を押しつけた。
春香に優しく撫でられているインポータントデイを見ながら、当番厩務員は相変わらずだなと思いながら笑っていた。
「春香さん、一流のトレーナーですねぇ〜」
「え? ああ〜。馬って日本語通じるんだよなって思わないか?」
「春香さん見てると本気で思いますよ。気の所為じゃ済まないぐらいに通じてますもん」
名前なら呼んだ人の声や響きで分かるかも知れないが、ちゃんと『駄目』が分かるのは凄いと笑って見ていた。
「パパ」
「ん? 凱央、どうした?」
凱央が雄太の腕をグイッと引っ張った。
真剣な顔をして口元に手を当てているから内緒話なのだろうと察した雄太は、少し姿勢を屈めた。
「デイ、調子がかんぺきじゃない?」
「あ……。まぁ、な」
前走の結果が芳しくなく、調教でも前のような感じがしないと聞いていた雄太は言葉を濁した。
「そっか。でも、ママがはげましてくれたらがんばれるよね。デイ、ママの事が大好きだから」
「凱央もそう思うか?」
「うん。なんとなくだけどね。ぼくもママにがんばれって言ってもらえたらがんばれるし」
凱央はジッと春香に甘えるインポータントデイを見詰めていた。
春香が頑張れと言ったからといって優勝出来るとは限らない。もしそんな事が可能ならば、春香と馬を会わせたい調教師や馬主がどれだけいるか分からない。
(そんな奇跡みたいな……おとぎ話みたいな事なんてある訳ない。俺だって、春香が頑張れって言ってくれて勝てる事は殆どないんだからな)
インポータントデイが春香に甘えている姿を見ていた悠助達が雄太に近づき、服をツンツンと引っ張った。
「パパァ〜。デイにがんばれいいたい」
「パパ。デイナデタイ〜」
「パー。マダ?」
下の三人が雄太を見上げて、撫でたいアピールをしてくる。
「よしよし」
雄太は子供達を順番にヒョイと抱き上げて馬房に入る。
「デイ、ガンバルノヨ」
「デイ。おうえんしてるからね」
「ガンバレ、ガンバレ。デイ」
凱央がそっと手を伸ばし撫でてやる。
「デイ、がんばるんだよ。ぼく、デイなら出来るって信じてるからね」
その姿は春香に似ていると雄太は思っていた。




