1000話
春香は二階の自室へ行った悠助の事は凱央に任せても良いかなと思っていた。
(凱央、私が思うよりお兄ちゃんしてるし……)
最近はグンッと大人びてきている部分を見る事が増えたと思うし、凱央は悠助が傷つくことは言わないという確信があった。
そう思って、ベッドでスヤスヤと眠っている俊洋と美理愛を見る。
二人はまだメイゲイルに何があったのかと想像する事は出来ないのだろう。先頭を走っていたメイゲイルが外ラチ側に雄太に導かれた事を不思議そうな顔で見ていただけだ。
(ゲイル……。今、どうしてるのかな……。倒れたりしてなかったから大丈夫だって思いたい……)
子供達には見せてはいなかったが、過去のレースで落馬シーンや競走中止のシーンを見た春香は小さく溜め息を吐いた。
22時を過ぎた頃、リビングの電話が鳴った。春香はそっと部屋を出てリビングに向かった。
(この時間って事は雄太くんかな?)
子機を手にした春香が応答する前に聞こえた声は雄太ではなかった。
『春さん。遅くにごめん。俺っす』
「塩崎さん」
春香は純也の声が沈んでいる事に気がついた。背後からは賑やかな声が聞こえていて、どこかの店である事は想像が出来た。
(あれ? お店……? 今日は泊まりじゃないのに……)
東京競馬場で騎乗がある時でも、雄太は帰ってきていた。泊まりにする時はちゃんとホテルを予約していたし、急に泊まる事が決まったら電話があった。
『その……雄太なんすけど……』
「うん。落ち込んでる……よね?」
雄太が他馬に騎乗依頼があって先輩が騎乗した事で、メイゲイルは既にG1は獲っている。
だから、雄太にとってメイゲイルと挑む初めてのG1だったのだ。
(頑張りたいって言ってたもんな……)
そのメイゲイルが完走出来なかった事で雄太が凹んでしまったのだろうと考えた春香は純也に訊ねた。
『その……落ち込んでるなんてもんじゃないんすよ。今、まだ東京なんすけど……。雄太がベロンベロンに酔っ払っちゃってて、歩く事も出来ないんす』
「え? 雄太くんが? そんなに……?」
普段の雄太は軽く酔う程度で歩けなくなるぐらいの酩酊状態になる事はない。
『もう終電はないし、今いる店はまだいられるんすけど、閉店になったら場所を移動して、なるべく早く帰れるようにするっす』
「うん。ありがとう、塩崎さん。雄太くんをお願いね」
『何言ってんすか。雄太は俺の親友だし、今まで何度も雄太に助けられてきたんすから当たり前っす』
春香がお礼を口にすると、ようやく純也は小さく笑った。
「そうだね。で……」
『なんすか?』
「ゲイルは……?」
春香は雄太から聞くのが良いとは思ってはいたが、雄太が酩酊する程に酒を呑みたくなる事はと想像すると訊ねずにはいられなかった。
きちんとレースの結果を切り替えられる雄太が、完走出来なかった事でそこまで落ち込むとは思えなかったのだ。
『春さん……。気を確かに持ってくださいっすよ……?』
純也の言葉に春香はゴクッと息を飲んだ。
『ゲイルは……予後不良だったっす』
「予後……不良……? え……? じゃあ……じゃあ……ゲイルは……」
『もうどうしようもなくって……安楽死の処置が取られて……』
純也が口にした『安楽死』という言葉が頭の中をグルグルと回っている。
息をする事を忘れてリビングボードの上に飾ってある悠助が嬉しそうに笑いながらメイゲイルと写っている写真を見詰めた。
(安楽死……。だから……雄太くんは……)
春香の頬に涙が伝った。
『春さん、大丈夫っすか?』
「あ……うん」
『春さん、とりあえず休んでくださいっす。了解っすか?』
「うん。じゃあ、雄太くんをよろしくね」
『はいっす』
雄太は純也に任せておけば大丈夫だろうと思ったが、春香は固まってしまったように体が動かなかった。
子機から聞こえるツーツーという音を聞いていたが、フゥっと体の力が抜け床に座り込んだ。
(ゲイル……。ゲイル……)
凛とした風格があり、他馬を寄せつけない強さを持ち、弾むように楽しそうに走る姿を思い出し春香は涙を流し続けた。




