993話
純也と健人が大津市の店でハンバーグを食べている頃、雄太達は江川厩舎を訪れていた。
「ゲイル〜、ゲイル〜」
「ゲイル、おめでとう。凄かったよ。お疲れ様」
悠助に抱きつかれ、春香に撫でられてメイゲイルはご満悦に見える。
「ゲイルがあんな風に人を受け入れるとはなぁ……」
「江川調教師と担当さん以外にはピリついた感じありましたもんね」
「思うように走れないもどかしさ……だったんだろうな。前の騎手が悪かった訳じゃなく、ゲイルとの意思疎通が上手くいかなかったのは俺にも責任ある」
江川は白髪頭をボリボリと掻いた。いくら騎手が良くとも、調教師から指示をされたら守らなければならない。
もし指示を無視して勝ったとしても、その後その調教師と何かしらの確執が残る可能性があるのだ。
G1をいくつも獲っている雄太も同じである。
「俺が鷹羽くんに騎乗依頼して、あれやこれやと話し合ってメイゲイルが才能を花開かせたんだなって思うと感慨深いな」
「江川調教師が騎手の意見を聞いてくださるからですよ?」
「ん? 誰の事かな? はっはっは」
調教師の中には騎手の意見を全く聞かない人もいる。その事は江川も分かっていて、大笑いをした。
「ゲイル。ゲイルガイチバン二ナッテクレテウレシカッタヨ」
悠助に褒められているのはメイゲイルには分かっているようだ。大きな体で小さな悠助に甘えて、差し出されたバナナをムシャムシャと食べている。
(ん〜。ゲイルが悠助で良かった。ゲイルまで春香にデレデレして舐めまくられたらたまったもんじゃないからな)
メイゲイルにバナナをやり終わった悠助に代わり、凱央を撫でさせてやっている。
「江川調教師、ゲイル本当に楽しそうに走りますね」
「春香さんにもそう見えるかね?」
「はい。のびのびとしてて、楽しいぞぉ〜って感じがします」
江川は春香に抱っこされながらメイゲイルを見ている美理愛の目がキラキラとしているのを見て嬉しそうに笑った。
「ゲイルは鷹羽くんと信頼関係を築いて、ただ思うがままに走れば良いのでは勝てないと学習したんだよ。ちゃんと鷹羽くんが出す合図を守ってな」
江川が自分を見ている事に気づいた美理愛が右手を江川に差し出し、江川は小さな手を握って優しく上下に振ってやった。
美理愛はパヤッと笑いながら、自ら手をフリフリとする。
「鷹羽くんは本当に良い騎手だよ。その馬の性格を理解しようと考えたり、正確にラップタイムを刻んで、どこでスパートをかければ良いか判断出来たり。俺の現役時代に鷹羽くんがいなくて良かった」
江川はそう言ってゲラゲラ笑った。
「私、雄太くんがレースの最中何を考えてるのか知らないんです。そもそも、調整ルームを出たら、私の事も子供達の事も忘れてるようですから」
「そう言えば、鈴掛くんがそう言っとったな。鷹羽くんは調整ルームに家族との記憶を置き去りにすると」
春香はニッコリと笑う。そして、俊洋を抱き上げている雄太の横顔を見詰める。
「はい。世の中の奥様方に叱られるかも知んないですけど、レースの場に余計な事を持ち込んで欲しくないんです。少しでも心がレースから逸れたら、命に関わる仕事ですから」
「ふむ。鷹羽くんは騎手になる為に生まれてきたような男だが、春香さんは騎手の妻になる為に生まれてきたような女性だな」
江川の言葉に春香は照れくさそうに笑った。
(慎一郎調教師が、春香さんを気に入ったのが心底分かるな)
雄太が馬房の外で江川と話している春香に近寄った。
「美理愛、ゲイル撫で撫でするか?」
「ン。ゲイユナデナデシュ」
雄太は美理愛を抱っこしてメイゲイルの傍へ行った。
美理愛が小さな手で鼻面を撫でていた。
「凱央くんは騎手になると言ったが悠助くんや俊洋くんはどうなんだろうな」
「さぁ……。子供達には子供達の人生がありますから。でも、雄太くんとお義父さんや雄太くんが良い見本だと思いませんか? それに雄太くんの周りにはたくさん良い見本の人達がいてくれますから」
はっきりと言った春香を江川は頼もしく思った。




