第7話 お断りいたします
王妃様からの書状が届いたのは、元の婚礼の日の翌朝だった。
その前日、私は一日じゅう公爵邸にいた。窓の外で鐘が鳴るたびに、今ごろは誓いの言葉、今ごろは祝宴の乾杯と、頭が勝手に数えはじめる。それを刺繍の針で黙らせて過ごした。
封を切ると、便箋が二枚入っていた。
一枚目は、昨夜の夜会についての知らせだった。殿下が婚礼用の主卓装飾を用いて、私的な夜会を開かれたこと。招待客の前で同伴の令嬢が退席され、殿下のご判断で会は中止されたこと。今後、殿下が王宮で私的な行事を主催される際には内務の実施確認を要し、費用は殿下ご自身の裁量費から支払われること。
婚礼用の主卓装飾。
読んだ瞬間に、金糸の色見本が目に浮かんだ。三度染め直した、あの金色。あの下に、ミレナ嬢を座らせようとしたのだ。
何があったのか、詳しくは書いていない。けれど、同伴の令嬢が退席されたという一行だけで、おおよその見当はついた。
私は便箋を膝に置いて、天井を見上げた。口の端が上がってくるのを、今度は押さえなかった。ほんの少し、胸がすいた。
それから、一枚目の終わりの数行に目を戻した。女官の勤務と給与、承認済みの休暇には、いずれも影響はない。夜会の給仕は外の業者が務め、休暇中の者が呼び出されたことはない。
そこまで読んで、ようやく肩から力が抜けた。
二枚目は、私宛ての申し出だった。
女官長への正式な任用。代理ではなく。女官を増やすための予算。行事の受入れを判断する権限。週に一度、必ず休む日を設けること。
読み進めるうちに、手のひらが熱くなった。
増員の予算があれば、交代の班をもう一つ作れる。受入れを判断する権限があれば、無理な行事は最初から断れる。私が「婚礼が済んだら」と先送りにしてきたものが、全部ここに書いてある。王妃様は、こういうことを飾った言葉で書く方ではない。
戻りたい、と思った。本気で。
夕方、ベアトリスが訪ねてきた。
勤めを終えたその足で来たらしく、女官の外套を着たままだった。腕に布包みを抱えている。
「控え室にお忘れのものです。明日から休みに入りますので、その前にお返ししておこうと思いまして」
包みの中身は、私の膝掛けと茶碗が一つ、それに書き損じの手紙の束だった。どれも、置いてきたことすら忘れていた。
「わざわざ、ありがとう」
「帰り道のついでですから」
ベアトリスは勧めた椅子に浅く腰かけ、外套の内側から紙を一枚出した。
「明日からの勤務表です。オルド様と組み直しました。ご覧になりますか」
見るつもりはなかったのに、手が勝手に受け取っていた。
B班が休みに入る明日からは、A班の三十人が戻る。その割り当てが、几帳面な字で埋まっていた。王妃様の来客、王女様のお稽古、衣装の手入れ。女官長代理の欄は空いたままで、空いたまま、どの時間にも穴がなかった。
「回るのね」
「回します。新しい行事を入れなければ」
ベアトリスは勤務表を受け取り、外套にしまった。
「控え室には、リディア様に戻っていただきたいという者もおります。正式な女官長になられるなら話は別だ、と。今さら、と言う者もいます。私はどちらでもありません」
「どちらでもない?」
「私は明日から休みですので」
そう言って、ベアトリスは立ち上がった。
「明後日は娘の店の開店です。朝から行って、看板を掛けるのを見ます。リディア様がお戻りになっても、ならなくても、それは変わりません」
玄関まで見送ると、彼女は外套の襟を直し、振り返らずに帰っていった。
その夜、自室の机で、もう一度二枚目の便箋を広げた。
机の端には、輪投げの景品の木彫りの小鳥が置いてある。
増員は何人まで可能か。予算の額から逆算すると八人。いや、厨房との兼ね合いを考えれば七人か。交代の班は三つにして、一班あたり。
気づけばペンを取って、便箋の余白に数字を書き込んでいた。七人を、どの持ち場に何人ずつ。来月には大きな行事が二つあるから、その前に面接を済ませて、それから。
来月の、予定。
ペンの先が止まった。
まだ戻るとも決めていないのに、私はもう来月を埋めはじめている。明日何をすればいいか分からないと言った私が、来月のことなら一晩で全部決められる。
小鳥が、机の端からこちらを見ていた。
私は余白の数字に線を引き、引き出しから新しい便箋を出した。
翌日、王妃様の居間を訪ねた。
王妃様は窓辺の椅子にかけて、私の差し出した返書を読んだ。読み終えても、しばらく便箋から目を上げなかった。
「お断り、なのね」
「はい。せっかくのお申し出を、申し訳ございません」
「謝るのは、こちらのほうです」
王妃様は便箋を膝に置いた。
「延期の報告は受けていました。あなたが何とかしてくれるからと、増員も後任も婚礼のあとでいいと先送りにした。それは私の判断です」
王妃様はそれ以上、言葉を重ねなかった。私も、いいえ、とは言わなかった。
「心残りは、ないのかしら」
「あります」
正直に答えた。
「お申し出を読んで、本当に戻りたくなりました。昨夜は増員の配置まで考えていました。でも今戻ったら、私はきっと来月も再来月も、自分の時間で穴を埋めます。ですから、今は戻りません」
王妃様は頷いた。
「増員の予算は、そのまま執行します。承認された休暇とオルドの暫定の体制も、変えません。後任は王宮の責任で探します。あなたに選ばせたりはしないから、安心なさい」
最後の一言に、私は思わず笑ってしまった。王妃様も、少しだけ口元をゆるめた。
居間を辞して回廊に出ると、殿下が立っていた。
待っていたのだろう。深緑ではなく、地味な紺の上着を着ていた。
「リディア」
私は足を止め、一礼した。
「すまなかった」
目の下に、薄く影がある。
「夜会のことは聞いただろう。ミレナとの話も止まっている。君がいれば、ああはならなかった。いや、そういうことを言いたいんじゃない。君には、ひどいことをした」
後悔は本物なのだと思った。この人がこんな顔をするのを、六年のあいだ見たことがなかった。
「それで、頼みがある。王宮に戻れとは言わない。ただ、前のように、ときどき相談に乗ってくれないか。ミレナへの手紙も、侯爵への取りなしも、どう書けばいいのか分からないんだ。君なら」
殿下は、その先を言わなかった。言わなくても分かった。六年間、何度も聞いてきた言葉の続きだった。
引き受けることはできる。もう官職にないから、という理屈は、この頼みには使えない。手紙の下書きを一枚書くくらい、一刻もかからない。
「お断りいたします」
殿下の顔から、表情が抜けた。
「ミレナ様へのお手紙は、殿下ご自身のお言葉でお書きになるのがよろしいと存じます。私の書いたものでは、あの方には届きませんから」
それだけ言って、私はもう一度礼をした。
殿下は何か言おうとして口を開き、それから閉じた。傷ついた顔をしていた。その顔を見ても、私は言葉を足さなかった。
回廊を歩きながら、背中に視線を感じていた。振り返らなかった。
公爵邸に戻ると、私は机に向かった。今度は勤務表でも返書でもない便箋を出した。
宛名は、ルシアン・フェルツ殿。
東通りの菓子店は、もう店を開けているはずです。五日後の昼は、いかがでしょう。
日付を書き入れて封をし、使いに渡した。返事を待つあいだ、私は机の端の小鳥を指でつついていた。
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